ガリソンと即時の解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:54 UTC 版)
「奴隷制度廃止運動」の記事における「ガリソンと即時の解放」の解説
1830年代に急激な変化が起こった。ウィリアム・ロイド・ガリソンが「即時の解放、段階的成就」を要求した。すなわち、ガリソンは奴隷所有者が即時に悔悟し解放の仕組みを始めることを要求した。1840年以後、「奴隷制廃止論」はガリソンのような立場をとるようになった。これは自由黒人を含むおよそ3千人の人々に導かれたイデオロギー運動であった。奴隷制度廃止運動はクエーカーを含み強い宗教的な基盤があり、1830年代に北部のチャールズ・フィニーによって指導された「第二次大覚醒」の信仰復興論者の情熱で改心した人々がいた。奴隷制度廃止という信条は自由メソジスト教会のような小さな宗派との関係を絶つことに貢献した。 福音主義者の奴隷制度廃止論者は幾つかの大学を創設した、最も顕著なものはメイン州のベイツ・カレッジとオハイオ州のオベリン大学である。著名な大学であるハーバード大学、イェール大学およびプリンストン大学は一般に奴隷制度廃止に反対していた。しかしその運動はイェール大学のノア・ポーター学長やハーバードのトマス・ヒル学長のような著名な人物を惹き付けた。 北部で奴隷制度に反対する者は禁酒運動、公的学校、監獄や福祉施設の建設など他の近代化改革運動も支持した。彼らは女性の行動主義の役割については意見が分かれた。 ローマ・カトリック教会のアイルランドでの指導者ダニエル・オコーネルはイギリス帝国とアメリカにおける奴隷制度廃止を支持した。オコーネルはカトリックの解放(イギリスやアイルランドにおけるローマ・カトリック教徒で市民と政治の障害の除去)を確保する時に指導的な役割を演じ、ガリソンのモデルの一人となった。ガリソンはアメリカの奴隷制度廃止運動にオコーネルを引き込み、オコーネルと黒人運動家のチャールズ・レノックス・レモンドおよび禁酒運動の牧師セオボルド・メイヒューが、アメリカのアイルランド人に廃止運動を支持するよう訴える6万人の署名を集めて請願書を作った。 それにもかかわらず、オコーネルが創ったアメリカの撤廃協会は奴隷制度賛成の立場を採った。これには幾つかの理由が示唆されてきた。如何なる場合も黒人と仕事を争ってきたアイルランド人はアイルランド人と黒人の自由のために使われる議論が同じであることを嫌った。アイルランド人は「彼らの」自由を守るアメリカ合衆国憲法に忠実であり、奴隷制度廃止論者の基本的に憲法を超越した立場を嫌った。またアイルランド人は奴隷制度廃止論をプロテスタントと認識していた。これに加えて、奴隷所有者はアメリカ国外の白人民族であるアイルランドの自由を躊躇することなく声に出して支持していた。 急進的なアイルランドの民族主義者は、アイルランドに対するイギリスの支配に対して暴力的な転覆を目論むことにオコーネルが拒否を示したことで、オコーネルと義絶しており、奴隷制度についても多様な見解を持っていた。1853年から1875年までアメリカで過ごしたジョン・ミッチェルは奴隷制度の情熱的な宣伝者であった。彼の3人の息子はアメリカ連合国(南軍)で従軍した。一方で、彼の以前の親しい仲間トマス・フランシス・ミーガーは南北戦争で北軍の准将として仕えた。 アメリカのカトリック教会はメリーランド州に本部があり、黒人の精神的平等さに対して確たる立場を採ったことや、ローマ教皇グレゴリウス16世の奴隷制度を非難する1839年の大勅書があったにもかかわらず、公的な会話でなければ、奴隷所有者の利益を支持し続けた。ニューヨークの司教はオコーネルの請願を偽造と言って非難し、本物であるならば、不当な外国の干渉であるとした。チャールストンの司教はカトリックの伝統が奴隷貿易に反対する一方で、奴隷制度に反対するなにごともしなかったと宣言した。南北戦争の前は、アメリカのどの主教も奴隷制度廃止運動を支持しなかった。戦争が遂行されている間でさえも、奴隷所有者と自由に会話していた。ある歴史家は、典礼主義者教会が罪を犯した人よりも異端者から自分達を隔てていたとしている。またエピスコパル派やルーテル派の中にも同様に奴隷制度を容認する者があったとしている。実際にエピスコパル派の主教は南軍の将軍であった。 オコーネルの失敗後、アメリカの撤廃教会は潰れた。しかしガリソンの考えを信奉する人々は、ローマ・カトリックに対するアメリカのプロテスタントの「苦い敵意」にもほとんど屈服することがなかった。奴隷制度反対論者の中には党派の崩壊の中で「ノー・ナッシングズ」(en:Know Nothings) 運動に投じる者もいた。しかし、エドムンド・ウィンシーはそれを「キノコの成長」と冷やかし、現実の問題から逃避するものとした。マサチューセッツ州のノー・ナッシング議会がガリソンを称えたが、ガリソンは自由の崇拝に対する基本的な権利を侵害する者として彼らに異を唱え続けた。 しかし、福音派のプロテスタントであるガリソンやジョン・ブラウンはアメリカ独立宣言を聖書と同じくらい重要なものと見ていた。1854年にガリソンは次のように記した。 私は、アメリカ独立宣言の中で、自明の真実の一つとして書かれている「あらゆる人は平等に生まれている。人は造り主によってある不可分の権利を授かっている。それらは命であり、自由であり幸福の追求である」ということを信じる。この故に私は奴隷制度廃止論者である。この故に私はあらゆる形の抑圧、その中でも取り分け人を物に変えてしまうことを、義憤と嫌悪で見ざるを得ない。この感覚を大事にしないことは原則的に臆病であろう。私に奴隷制度について耳を閉ざせと言う者は、私が防衛のために口を開くのでなければ、私の信条に対し嘘をつき、私の人間性を貶め、私の心を汚すことを求めるものである。私は嘘つきでも、臆病者でも、さらに偽善者でもない。いかなる党派にも合わせないし、いかなる派閥も満足させない。いかなる憎悪や危機からも逃げないし、いかなる利益も貯めない。いかなる制度も守る必要はないし、いかなる目的も促進はしない。ある者が他の者を奴隷にする権利があると私を説得してみるがいい。私は独立宣言をもはや読まなくなるだろう。自由はあらゆる人の持って生まれた権利ではないと私を説得してみるがいい。顔色や地域がどうあれ、私はそう言う人に燃え尽くす火を与えることだろう。私は自由と奴隷制度を同時に信奉する術を知らない。
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