イザベル・ルイザ・デ・ブラガンサとは? わかりやすく解説

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イザベル・ルイザ・デ・ブラガンサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 15:48 UTC 版)

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イザベル・ルイザ・デ・ブラガンサ
Isabel Luísa de Bragança
ブラガンサ家
インファンタ・イザベル・ルイザの肖像ドメニコ・ドゥプラ英語版作、1725年

全名 Isabel Luísa Josefa
イザベル・ルイザ・ジョゼファ
称号 ベイラ女公
出生 (1669-01-06) 1669年1月6日
 ポルトガル王国リスボン
死去 1690年10月21日(1690-10-21)(21歳)
 ポルトガル王国リスボン
埋葬  ポルトガル王国リスボンブラガンサ王家霊廟英語版
父親 ペドロ2世
母親 マリー・フランソワーズ・ド・サヴォワ=ヌムール
宗教 ローマ・カトリック教会
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イザベル・ルイザ・デ・ブラガンサポルトガル語: Isabel Luísa de Bragança1669年1月6日 - 1690年10月21日)はポルトガル王国インファンタ、ベイラ女公。ポルトガル王ペドロ2世と1番目の妻マリー・フランソワーズ・ド・サヴォワ=ヌムールの娘。1668年から異母弟ジョアンが生まれる1689年までポルトガル王位の推定相続人だった[1]

生涯

イザベル・ルイザは1669年、ポルトガル王ペドロ2世と1番目の妻マリー・フランソワーズ・ド・サヴォワ=ヌムールの間で生まれた。彼女にはサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世との縁談があったが、二人の結婚はヴィットーリオ・アメデーオ2世がポルトガルに移住することと、彼と不仲だった母のマリー・ジャンヌ・ド・サヴォワ=ヌムールが摂政の位に留まることを意味したため、サヴォイア宮廷で猛反対され、お流れとなった。その後もトスカーナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチ、フランスのグラン・ドーファンスペイン王カルロス2世パルマ公ラヌッチョ2世など数多くの縁談があった[2]が、いずれも結婚まで至らなかったため「常に婚約者」(: Sempre-noiva)という不名誉なあだ名がつけられた。

1690年に天然痘で死去、ブラガンサ王家霊廟英語版で埋葬された。

脚注

  1. ^ HEIRESSES TO THRONES”. www.guide2womenleaders.com. 2012年10月1日閲覧。
  2. ^ Death of Isabel Luísa, Pss of Beira”. www.unofficialroyalty.com. 2012年10月1日閲覧。



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