死後の関羽と関羽信仰とは? わかりやすく解説

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死後の関羽と関羽信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 14:07 UTC 版)

関羽」の記事における「死後の関羽と関羽信仰」の解説

六朝時代道教における、神格化され人間の一覧『真霊位業図』には曹操劉備はいるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽評価固まっていなかった証拠といえる北宋期『漢天世家』で張天師関羽呼び出す話があり、この頃には人間呼び出される程度扱いであった。明初に書かれとされる道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点かなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。 その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代智顗禅師元に関羽現れて、僧坊提供し守護神となったとする話が載り南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師元に関羽の霊が訪れ仏法帰依したいと請われ禅師煬帝奏して関羽を「伽藍神伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。 儒教では五文昌一人文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられ時期はっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初に神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威震天関聖帝君」に封じ清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」、光緒帝至っては「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」と次々と追贈している。多く王朝初期末期追贈がされており、政策一環国内外情勢垣間見える。なお、清朝公認した関帝信仰は、満州劉備蒙古関羽準え兄弟結盟背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった(徐珂『清稗類鈔』、喪祭類「以祀関羽愚蒙」)。 同時に清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝祀る武廟を建立させた。孔子廟中華人民共和国初期多数破壊され結果、現在では関帝廟単独多く各地に残る結果となっている。 一方民衆の人気高く各地中華街には関帝廟建立されており、日本においては横浜中華街神戸南京町関帝廟著名である。『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子関鈴がそれぞれ登場する。また民間伝承では玉帝比する左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝聖誕日を5月13日 (旧暦)もしくは6月24日 (旧暦)としており、台湾では旧暦6月24日祭りが行われる。 関羽プロフィールについても、民間伝説により補完されている。銭静方『小説叢考』は、清代に「発見された」関羽墓碑なるものを根拠に、関羽生年延熹3年160年6月24日とし、祖父は関審、父は関毅、妻は胡氏 であるとする。さらに関平関羽実子とし、光和元年生まれたとする。 中国聯合準備銀行1938年から1945年まで発行していた10紙幣肖像採用されていた。

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