死後の関羽と関羽信仰
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六朝時代の道教における、神格化された人間の一覧『真霊位業図』には曹操・劉備はいるが、関羽はいない。六朝時代ではまだ関羽の評価は固まっていなかった証拠といえる。北宋期『漢天師世家』で張天師が関羽を呼び出す話があり、この頃には人間に呼び出される程度の扱いであった。明初に書かれたとされる『道法会元』には「関元帥」と記されており、この時点でかなりの地位の向上がある。その後に「協天大帝関聖帝君」として神格化された。神格化されたのは仏教よりも後なのは確かである。 その仏教では唐代の『荊南節度使江陵尹裴公重修玉泉関廟記』に、隋代の智顗禅師の元に関羽が現れて、僧坊を提供し守護神となったとする話が載り、南宋期に書かれた『仏祖統紀』には智顗禅師の元に関羽の霊が訪れ、仏法に帰依したいと請われた禅師が煬帝に奏して、関羽を「伽藍神(伽藍菩薩)」に封じたとしている。現在では「関帝菩薩」とも呼ばれている。 儒教では五文昌の一人「文衡聖帝」とされて、「山西夫子」と呼ばれている。封じられた時期ははっきりしない。武より文の面が強調されており、台湾などでは受験の際に礼拝される。 政治面から見ると、乱世の中で特定の個人に対して忠誠を尽くした関羽は、為政者から見ると賞賛すべき人物であった。そのため、北宋の徽宗皇帝が爵諡の「忠恵公」後に「武安王」として封じ、「崇寧真君」とした。その後、南宋期には「義勇武安王」とされたと伝わる。明初には神号「協天護国忠義関聖大帝」とされてから、熹宗皇帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」に封じ、清代に入ると順治帝が「忠義神武関聖大帝」として、後に宣統帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」、光緒帝に至っては「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」と次々と追贈している。多くは王朝初期と末期に追贈がされており、政策の一環や国内外の情勢が垣間見える。なお、清朝が公認した関帝信仰は、満州を劉備、蒙古を関羽に準えた兄弟結盟を背景とし、蒙古との関係を維持する目的もあった(徐珂『清稗類鈔』、喪祭類「以祀関羽愚蒙」)。 同時に、清代には県に必ず孔子を祭る文廟と、関帝を祀る武廟を建立させた。孔子廟が中華人民共和国初期に多数破壊された結果、現在では関帝廟が単独で多く各地に残る結果となっている。 一方、民衆の人気も高く、各地の中華街には関帝廟が建立されており、日本においては横浜中華街と神戸南京町の関帝廟が著名である。『水滸伝』には関羽の子孫である関勝が、銭彩原『説岳全伝』には関勝の子関鈴がそれぞれ登場する。また民間伝承では玉帝に比する「左玉皇」とされていて、「関恩主」とも敬称される。なお、民間では関帝の聖誕日を5月13日 (旧暦)もしくは6月24日 (旧暦)としており、台湾では旧暦6月24日に祭りが行われる。 関羽のプロフィールについても、民間伝説により補完されている。銭静方『小説叢考』は、清代に「発見された」関羽の墓碑なるものを根拠に、関羽の生年を延熹3年(160年)6月24日とし、祖父は関審、父は関毅、妻は胡氏 であるとする。さらに関平を関羽の実子とし、光和元年に生まれたとする。 中国聯合準備銀行が1938年から1945年まで発行していた10元紙幣に肖像が採用されていた。
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