牛僧孺とは? わかりやすく解説

ぎゅう‐そうじゅ〔ギウ‐〕【牛僧孺】

読み方:ぎゅうそうじゅ

[779〜847]中国、唐の政治家。字(あざな)は思黯(しあん)。時の宰相の子李徳裕対立新興科挙官僚門閥貴族対立として名高い(ぎゅうり)の党争を展開。


牛僧孺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:50 UTC 版)

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牛 僧孺(ぎゅう そうじゅ、大暦14年(779年) - 大中2年12月29日[1]849年1月27日))は、中国代の政治家。本貫安定郡鶉觚県牛弘の末裔にあたる。

生涯

貞元21年(805年)の進士戸部侍郎同中書門下平章事に上った。李逢吉・李宗閔らと結んで李徳裕と争い、「牛李の党争」を引き起こした。

会昌3年(843年)、李徳裕の李党が権力を握ると、牛僧孺は循州員外長史に左遷された。会昌6年(846年)に宣宗が即位すると、李党は排斥され、大中元年(847年)に牛僧孺は朝廷に召還されて太子少師となった。その後、李徳裕は崖州司戸として配所で逝去し、牛李の党争は牛党の勝利に終わった。

また、牛僧孺は『玄怪録』の撰者とみなされている。

脚注

  1. ^ 『牛僧孺墓誌銘』によれば12月27日



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