維州事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:10 UTC 版)
同年に李宗閔は牛僧孺を呼び戻して宰相とし、再び牛党の世となった。 この中で大和5年(831年)に維州事件が起こる。吐蕃が安史の乱のさいの混乱に乗じて首都の長安を陥落させるということがあったが、唐が体勢を立て直した後に和約を結んでいた。この時に吐蕃側の領土であった維州の長官が唐に帰順を申し出てきた。李徳裕はこれを受け入れるように朝廷に上奏したが、牛僧孺は「維州一つで吐蕃との和約を破るべきではない」と述べてこれを退けた。これにより李徳裕はますます牛僧孺を恨んだという。 ところが大和6年(832年)になると文宗は維州を失ったことを悔やむようになり、牛僧孺が維州を放棄したことに対して批判が相次いだ。これにより牛僧孺は宰相を退き、大和7年(833年)、李徳裕が宰相に返り咲いた。宰相となった李徳裕は李宗閔ら牛派を朝廷から一掃するが、翌年には再び李宗閔が返り咲き、李徳裕は宰相を追われる。 このような党争の有様に文宗は「河北の賊を鎮めるのは難しくないが、朝廷内の朋党を収めるのは難しい」と嘆き、党争に嫌気が差した文宗は牛党にも李党にも属しない中立派の李訓(李逢吉の甥)・鄭注を重用するようになった。皇帝の信任を受けた李訓・鄭注は牛派・李派双方を朝廷から追い出した。
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