李訓
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李 訓(り くん、生年不詳 - 835年)は、唐代の官僚・政治家。字は子垂。もとの名は仲言、字は子訓[1]。本貫は隴西郡狄道県。
経歴
容貌魁偉で、心情はさっぱりして物事にこだわらなかった。能弁で機智にすぐれ、他人の意思を推しはかるのを得意とした。進士に及第し、太学助教に任じられた。河陽三城懐州節度使に召し出されて、その補佐役をつとめた。宝暦年間、従父の李逢吉が宰相となると、李訓は陰険ではかりごとを得意としたことから、厚遇された。茅匯らとともに李程を中傷しようとして、武昭の事件に連座して、象州に流された。ちょうど赦令にあって帰還することができた。母が死去したため、李訓は洛陽で喪に服した[2][1]。
ときに李逢吉が東都留守となると、宰相への復帰を望みつつ、裴度を深く恨んで、鬱々として楽しまなかった。李訓は鄭注と結ぶよう李逢吉に勧めた。李逢吉は李訓に金帛珍宝数百万を持たせて、長安に入らせ、鄭注に賄賂として贈った。鄭注は李訓を中尉の王守澄に推薦した。王守澄が李訓を易道で文宗に推薦すると、文宗は李訓に戎服を着せ、王山人と号させ、鄭注とともに内廷に入らせた。大和8年(834年)、李訓は四門助教に任じられ、緋魚袋を賜った。10月、国子監博士に転じ、侍講学士をつとめた[3][4]。
文宗は宦官の専横を憎んで、その粛清を李訓や鄭注と相談した。大和9年(835年)7月、李訓は兵部郎中・知制誥となり、翰林学士をつとめた。9月、礼部侍郎・同中書門下平章事(宰相)に進んだ[5][6]。
李訓は鄭注を鳳翔節度使とし、郭行余を邠寧節度使とし、王璠を河東節度使とし、羅立言を京兆少尹・知京兆府事とし、韓約を左金吾衛大将軍とし、李孝本を知御史中丞事として、11月を期して宦官誅殺を計画した[7][8]。
11月21日、李訓らは甘露の変を発動したが、文宗の身柄を宦官に確保されて失敗し、単騎で逃走して終南山に入った。僧形に姿を変えて、鄭注のいる鳳翔府を頼ろうとしたが、山を出たところ、盩厔鎮遏使の宗楚に捕らえられ、長安に向けて護送された。道中に昆明池で斬られて、その首級が長安に届けられた[9][10]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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