李訓とは? わかりやすく解説

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李訓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/10 10:39 UTC 版)

李 訓(り くん、生年不詳 - 835年)は、唐代官僚政治家は子垂。もとの名は仲言、字は子訓[1]本貫隴西郡狄道県

経歴

容貌魁偉で、心情はさっぱりして物事にこだわらなかった。能弁で機智にすぐれ、他人の意思を推しはかるのを得意とした。進士に及第し、太学助教に任じられた。河陽三城懐州節度使に召し出されて、その補佐役をつとめた。宝暦年間、従父の李逢吉が宰相となると、李訓は陰険ではかりごとを得意としたことから、厚遇された。茅匯らとともに李程を中傷しようとして、武昭の事件に連座して、象州に流された。ちょうど赦令にあって帰還することができた。母が死去したため、李訓は洛陽で喪に服した[2][1]

ときに李逢吉が東都留守となると、宰相への復帰を望みつつ、裴度を深く恨んで、鬱々として楽しまなかった。李訓は鄭注と結ぶよう李逢吉に勧めた。李逢吉は李訓に金帛珍宝数百万を持たせて、長安に入らせ、鄭注に賄賂として贈った。鄭注は李訓を中尉の王守澄に推薦した。王守澄が李訓を易道で文宗に推薦すると、文宗は李訓に戎服を着せ、王山人と号させ、鄭注とともに内廷に入らせた。大和8年(834年)、李訓は四門助教に任じられ、緋魚袋を賜った。10月、国子監博士に転じ、侍講学士をつとめた[3][4]

文宗は宦官の専横を憎んで、その粛清を李訓や鄭注と相談した。大和9年(835年)7月、李訓は兵部郎中知制誥となり、翰林学士をつとめた。9月、礼部侍郎同中書門下平章事(宰相)に進んだ[5][6]

李訓は鄭注を鳳翔節度使とし、郭行余を邠寧節度使とし、王璠を河東節度使とし、羅立言を京兆少尹・知京兆府事とし、韓約を左金吾衛大将軍とし、李孝本を知御史中丞事として、11月を期して宦官誅殺を計画した[7][8]

11月21日、李訓らは甘露の変を発動したが、文宗の身柄を宦官に確保されて失敗し、単騎で逃走して終南山に入った。僧形に姿を変えて、鄭注のいる鳳翔府を頼ろうとしたが、山を出たところ、盩厔鎮遏使の宗楚に捕らえられ、長安に向けて護送された。道中に昆明池で斬られて、その首級が長安に届けられた[9][10]

脚注

  1. ^ a b 新唐書 1975, p. 5309.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 4395.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4395–4396.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5309–5310.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 4396.
  6. ^ 新唐書 1975, pp. 5310–5311.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 4397.
  8. ^ 新唐書 1975, p. 5311.
  9. ^ 旧唐書 1975, pp. 4397–4398.
  10. ^ 新唐書 1975, p. 5311-5313.

伝記資料

参考文献




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