李観とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 李観の意味・解説 

李観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/12 01:36 UTC 版)

李 観(り かん、生年不詳 - 788年)は、唐代軍人本貫河南府洛陽県[1][2]

経歴

刑部員外郎の李敬仁の兄弟の孫にあたる。若くして武芸を習い、沈着温厚で言葉少なく、将帥としての識見があった。乾元年間、策謀を朔方節度使の郭子儀に献じた。郭子儀はこれを善しとして、李観に命じて坊州刺史の呉伷を補佐させ、防遏使をつとめさせた。ほどなく李観は服喪のため辞職し、盩厔の別荘に居住した[1][2]

広徳元年(763年)、吐蕃長安に進入して、代宗陝州に逃れると、李観は盩厔で代宗の謁見を受けた。李観が郷里の子弟1000人あまりを率いて黒水の西を守ると、吐蕃人たちは近づこうとしなかった。嶺南節度使の楊慎微の上奏により李観はその下で偏将となり、広州の軍政を総べるのを助けた。徐浩や李勉が引き続き広州を統治すると、李観はさらに信任を加えられ、麾下の軍事をことごとく委任された。馮崇道や朱泚の乱を鎮圧した功績により、大将に累進した。李勉が滑州に移鎮すると、李観は殿中監として試用され、開府儀同三司の位を加えられた。長安に赴き、右龍武将軍の号を受けた[1][2]

建中4年(783年)、涇原の兵が反乱を起こしたとき、李観はときに徳宗のそばで宿直していたが、衛兵1000人あまりを率いて奉天につき従った。詔を受けて都巡警や諸軍の兵2000人あまり[3]を数日間で召し加え、令狐建・李昇・韋清らとともに反乱鎮圧に奔走した。徳宗が長安に帰還すると、詔により李観は後軍禁衛を総べた[4][2]

興元元年(784年)閏10月、李観は四鎮北庭行軍涇原節度使に任じられ、兵部尚書検校した。貞元3年(787年)、吐蕃との平涼の会盟において、渾瑊は無警戒であったが、李観は吐蕃の策謀を察知し、ひそかに精兵5000を選抜して険道に伏せておいた。渾瑊は逃げ帰ってきたが、李観の軍と駱元光の軍のおかげで危地を脱した。この年、李観は長安に入朝し、少府監に任じられ、工部尚書を検校した[4][2]。貞元4年(788年)12月辛巳[5]、病のため死去した。太子少傅の位を追贈された[4][2]

子女

  • 李宏
  • 李寓

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 3912.
  2. ^ a b c d e f 新唐書 1975, p. 4903.
  3. ^ 旧唐書』李観伝による。『新唐書』李観伝は5000人とする。
  4. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 3913.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 367.

伝記資料

  • 『旧唐書』巻144 列伝第94
  • 『新唐書』巻156 列伝第81

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  李観のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李観」の関連用語

李観のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李観のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李観 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS