李程
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李 程(り てい、生没年不詳)は、唐の宗室・官僚・政治家。字は表臣[1][2]。
経歴
貞元12年(796年)、進士に及第し、さらに博学宏辞科に登第して、節度使の補佐役を歴任した。貞元20年(804年)、入朝して監察御史となった。秋、翰林学士をつとめた[1][2]。
貞元21年(805年)、順宗が即位すると、李程は王叔文に排斥され、学士から罷免された。三度異動して員外郎となった。元和年間、剣南西川節度行軍司馬として出向した。元和10年(815年)、入朝して兵部郎中となり、ほどなく知制誥をつとめた。韓弘が淮西諸軍行営都統となると、李程は勅命により宣諭にあたった。元和11年(816年)、中書舎人に任じられ、知京兆尹事をつとめた。元和12年(817年)、知礼部貢挙をつとめた。元和13年(818年)4月、礼部侍郎に任じられた。6月、鄂州刺史・鄂岳観察使として出向した。入朝して吏部侍郎となり、渭源県男に封じられた。長慶4年(824年)5月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[3][2]。
敬宗は宮殿を新しく建てるのを好み、節度なく狩猟にふけったので、李程はこれを諫めた。また侍講学士を置いて帝に経書の解釈を教えさせるよう上奏した。ほどなく中書侍郎を加えられ、彭原郡公に進封された。宝暦2年(826年)、宰相から退任し、検校兵部尚書・同平章事・太原尹・北都留守・河東節度使として出向した。大和4年(830年)3月、検校尚書左僕射・同平章事・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使に転じた[4][5]。
大和6年(832年)、李程は検校司空を加えられた。7月、長安に召還されて尚書左僕射となった。大和7年(833年)6月、検校司空・汴州刺史・宣武軍節度使として出向した。大和9年(835年)、再び河中尹となり、検校司徒を加えられた。開成元年(836年)5月、入朝して尚書右僕射となり、判太常寺卿事を兼ねた。11月、判吏部尚書銓事を兼ねた。開成2年(837年)3月、検校司徒・襄州刺史・山南東道節度使として出向した。開成5年(840年)、武宗が即位すると、李程は東都留守をつとめた。のちに死去した。享年は77。諡は繆といった[6][7]。
家族
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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