李程とは? わかりやすく解説

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李程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 12:12 UTC 版)

李 程(り てい、生没年不詳)は、宗室官僚政治家は表臣[1][2]

経歴

貞元12年(796年)、進士に及第し、さらに博学宏辞科に登第して、節度使の補佐役を歴任した。貞元20年(804年)、入朝して監察御史となった。秋、翰林学士をつとめた[1][2]

貞元21年(805年)、順宗が即位すると、李程は王叔文に排斥され、学士から罷免された。三度異動して員外郎となった。元和年間、剣南西川節度行軍司馬として出向した。元和10年(815年)、入朝して兵部郎中となり、ほどなく知制誥をつとめた。韓弘が淮西諸軍行営都統となると、李程は勅命により宣諭にあたった。元和11年(816年)、中書舎人に任じられ、知京兆尹事をつとめた。元和12年(817年)、知礼部貢挙をつとめた。元和13年(818年)4月、礼部侍郎に任じられた。6月、鄂州刺史・鄂岳観察使として出向した。入朝して吏部侍郎となり、渭源県男に封じられた。長慶4年(824年)5月、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[3][2]

敬宗は宮殿を新しく建てるのを好み、節度なく狩猟にふけったので、李程はこれを諫めた。また侍講学士を置いて帝に経書の解釈を教えさせるよう上奏した。ほどなく中書侍郎を加えられ、彭原郡公に進封された。宝暦2年(826年)、宰相から退任し、検校兵部尚書・同平章事・太原尹・北都留守・河東節度使として出向した。大和4年(830年)3月、検校尚書左僕射・同平章事・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使に転じた[4][5]

大和6年(832年)、李程は検校司空を加えられた。7月、長安に召還されて尚書左僕射となった。大和7年(833年)6月、検校司空・汴州刺史・宣武軍節度使として出向した。大和9年(835年)、再び河中尹となり、検校司徒を加えられた。開成元年(836年)5月、入朝して尚書右僕射となり、判太常寺卿事を兼ねた。11月、判吏部尚書銓事を兼ねた。開成2年(837年)3月、検校司徒・襄州刺史・山南東道節度使として出向した。開成5年(840年)、武宗が即位すると、李程は東都留守をつとめた。のちに死去した。享年は77。は繆といった[6][7]

家族

  • 玄祖父:李神符[2]
  • 高祖父:李文暕(幽州都督)
  • 曾祖父:李挺(殿中監)
  • 祖父:李柏(太僕寺卿)
  • 父:李鷫(滁州刺史)[1]
  • 子:李廓(潁州刺史)
  • 孫:李昼(万年県尉)[8]

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4372.
  2. ^ a b c d 新唐書 1975, p. 4511.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4372–4373.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 4373.
  5. ^ 新唐書 1975, pp. 4511–4512.
  6. ^ 旧唐書 1975, pp. 4373–4374.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 4512.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 4374.

伝記資料

参考文献




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