羅立言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/20 08:56 UTC 版)
羅 立言(ら りつげん、生年不詳 - 835年)は、唐代の官僚。本貫は宣州宣城県[1]。
経歴
羅歓の子として生まれた。貞元20年(804年)、進士に及第した。魏博節度使の田弘正の補佐役をつとめた。陽武県令に任じられ、河陰県令に転じた。宝暦元年(825年)、検校主客員外郎となり、河陰院塩鉄留後をつとめた。宝暦2年(826年)、買い上げ米の量を誤魔化し、19000貫を横領した罪に問われた。塩鉄使はかれの才能を惜しんで、罪を侍御史の兼官の剥奪にとどめた[2][1]。
大和9年(835年)、立言は廬州刺史から召還されて司農寺少卿となり、太倉の出納物をつかさどった。鄭注に厚く賄賂を贈り、李訓に重んじられた。李訓に任用されて京兆少尹・知京兆府事となった[2][1]。この年の11月21日(12月14日)、甘露の変で宦官誅殺を図って失敗した[3][4]。11月24日(12月17日)、立言は一族とともに処刑された[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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