羅紹威とは? わかりやすく解説

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羅紹威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/29 03:07 UTC 版)

羅 紹威(ら しょうい、877年 - 910年)は、末から五代十国時代にかけての軍人。魏博節度使。は端己[1][2][3]本貫魏州貴郷県[4][5][6][3]

経歴

羅弘信の子として生まれた。文徳元年(888年)、左散騎常侍に任じられ、魏博節度副使をつとめた。光化元年(898年)、父が死去すると、節度留後となり、朝廷により魏博節度使に任じられた[1][2][7][8]

光化2年(899年)1月、盧龍軍節度使の劉仁恭が10万の兵を率いて、貝州を攻め落とし、長駆して魏州を攻撃した。紹威は宣武軍節度使の朱全忠に救援を求めた。朱全忠は部将の李思安を派遣して洹水に駐屯させた。葛従周邢州洺州から軍を率いて魏州に入った。劉仁恭の長男の劉守文と幽州の将の単可及が汴州の軍を内黄県で攻撃したが、李思安が迎え撃ってこれを破り、勝利に乗じて追撃した。さらに葛従周が幽州の軍を襲撃して破り、3万人を斬首した。光化3年(900年)、紹威は汴州の軍を率いて滄州を攻撃した。紹威は朱全忠の援助の恩に感じて、従属を深めた[9][2][10]

天復3年(903年)、紹威は検校太尉を加えられ、侍中を兼ね、長沙郡王に封じられた。天祐元年(904年)、昭宗洛陽に遷都すると、紹威は太廟を造営した。侍中に進み、鄴郡王に進封された。「忠勤宣力致理功臣」の号を賜った[1][2][11]。紹威は聡明敏捷な性格で、官吏の事務に熟達していた。儒学に心を寄せ、文人を招聘し、万巻の書を蒐集していた。詩作を嗜み、同姓の羅隠を叔父と呼んで私淑していた[12][13][14][8]

魏博軍のうちでも牙軍の増長は歴年のうちに甚だしくなり、紹威はひそかに牙軍の粛清を企図していた。天祐2年(905年)7月13日夜、魏博軍の裨校の李公佺が乱を起こし、紹威は身ひとつで逃亡した。李公佺は紹威の殺害に失敗すると、滄州の劉守文のもとに亡命した。紹威は朱全忠に救援を求め、朱全忠は李思安を派遣して魏博軍に合流させると、滄州を攻撃させた。先だって朱全忠の娘がとついでいた紹威の長男の羅廷規が死去していた。朱全忠は長直軍校の馬嗣勲に兵1000人を選抜させて、葬儀を口実に武装した兵を魏州に入れることにした。天祐3年(906年)1月5日、馬嗣勲が魏州に入ると、朱全忠は自ら大軍を率いて黄河を渡った。紹威は朱全忠を出迎えようとしたが、牙軍は強く疑って城を出させなかった。1月14日夜、紹威は雑役の者110人を率いて、馬嗣勲と合流して牙軍を攻撃し、牙城に宿営していた者1000人をほぼ全滅させ、8000家を粛清した。魏博軍のうちで滄州を攻撃していた者は、歴亭県で変を聞いて、その将の史仁遇を擁立し、高唐県を確保した。魏博の6州はいずれも反乱に与していたが、朱全忠によって平定された。紹威は牙軍の圧迫を排除したものの、魏博の勢力を自ら弱体化させたことを後悔することになった[9][15][16][17]

紹威は後梁に仕えて、太師となり、中書令を兼ねた。開平4年(910年)5月、死去した[18]。享年は34。尚書令の位を追贈された。は貞荘といった[19][20]

子女

  • 羅廷規(魏博節度副使となり、朱全忠の娘の安陽公主と金華公主を妻に迎えたが、早逝した)
  • 羅周翰(魏博節度使を嗣いだが、のちに宣義軍節度使)
  • 羅周敬(匡国軍節度使)[21][22]
  • 羅周胤

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4691.
  2. ^ a b c d 新唐書 1975, p. 5941.
  3. ^ a b 新五代史 1974, p. 415.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 4690.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 5939.
  6. ^ 旧五代史 1976, p. 187.
  7. ^ 旧五代史 1976, pp. 187–188.
  8. ^ a b 新五代史 1974, p. 416.
  9. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4692.
  10. ^ 旧五代史 1976, p. 189.
  11. ^ 旧五代史 1976, p. 188.
  12. ^ 旧唐書 1975, p. 4693.
  13. ^ 新唐書 1975, p. 5943.
  14. ^ 旧五代史 1976, p. 191.
  15. ^ 新唐書 1975, p. 5942.
  16. ^ 旧五代史 1976, pp. 189–190.
  17. ^ 新五代史 1974, p. 417.
  18. ^ 旧五代史 1976, p. 84.
  19. ^ 旧唐書 1975, pp. 4692–4693.
  20. ^ 旧五代史 1976, pp. 190–191.
  21. ^ 旧五代史 1976, pp. 191–192.
  22. ^ 新五代史 1974, p. 418.

伝記資料

参考文献




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