羅弘信
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羅 弘信(ら こうしん、836年 - 898年)は、唐代の軍人。魏博節度使。もとの名は宗弁。字は徳孚。本貫は魏州貴郷県[1][2]。
経歴
若くして軍役に従い、魏博節度使の韓簡や楽彦禎に仕えた。文徳元年(888年)、魏博軍が反乱を起こし、楽彦禎が拘禁されると、都将の趙文㺹が魏博軍に推されて留後となった。楽彦禎の子の楽従訓が相州から3万人あまりを率いて魏州城下を攻めたが、趙文㺹は応戦しようとしなかった。魏博軍は趙文㺹を殺して、弘信を留後に立てた。弘信は兵を率いて出戦して楽従訓を破った。4月、僖宗に奏聞され、弘信は工部尚書を加えられ、権知節度留後をつとめた。7月、金紫光禄大夫の位を加えられ、検校尚書右僕射となり、魏博節度観察処置等使をつとめた。龍紀元年(889年)、検校司空・同中書門下平章事を加えられ、豫章郡公に封じられた[3][2]。
大順元年(890年)、宣武軍節度使の朱全忠が河東節度使の李克用を攻撃するため、相州・衛州に道を借りようとすると、弘信はこれを拒絶した。朱全忠が丁会・龐師古・葛従周・霍存らに1万騎を与えて黄河を渡らせると、弘信は内黄県で抗戦したが、5戦5敗し、大将の馬武らを捕らえられた。弘信が厚い贈物を送って講和を求めると、朱全忠は撤兵した[4]。
乾寧元年(894年)、朱全忠が兗州や鄆州を攻撃すると、天平軍節度使の朱瑄は李克用に救援を求めた。李克用は軍を発し、魏州に道を借り、大将の李存信を莘県に駐屯させた。李存信は軍の統御に紀律がなく、魏州の牧場を侵奪したため、弘信はこれに不満を抱いた。弘信は朱全忠と誼を通じ、3万の兵を出して李存信を攻め、これを撃破した。李克用は怒って、兵を挙げて魏州を攻め、観音門外に陣営を置いた。汴州の将の葛従周が魏州を救援し、洹水に駐屯した。李克用の子の李落落が鉄林軍使をつとめていたが、葛従周に捕らえられ、太原府の軍は退却した。これ以来、太原府の軍は連年にわたって相州や魏州に侵攻し、魏博の外患となった[5][4]。
朱全忠は弘信の離反を恐れ、歳時に応じて贈物を送り、辞を低くして礼遇した。朱全忠は魏州の使者がやってくると北面して応接した。弘信の官は検校太尉・侍中に進み、長沙郡王に封じられた。光化元年(898年)9月、死去した。享年は63。太師の位を追贈され、北平郡王に追封された。諡は荘粛といった[5][6]。
家族
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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