党争の勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:10 UTC 版)
李徳裕は父吉甫が牛僧孺らによって攻撃されたことを恨んでいた。その折の長慶元年(821年)、李宗閔が科挙に関して不正を行ったので、これを攻撃して李宗閔を地方に追いやった。これより後、40年にわたって牛李の党争が行われる。 長慶2年(822年)に李逢吉が宰相に復帰すると裴度・李徳裕はそれぞれ地方に転出させられた。代わって長慶3年(823年)には李逢吉の引き立てで牛僧孺が宰相となる。この後、長慶4年(824年)に敬宗に代替わりし、牛僧孺は鄂州刺史・武昌軍節度使として赴任した。この時期、李逢吉は李紳ら政敵をことごとく排斥し、自らの派で朝廷を固めその党派は八関十六子と呼ばれた。 宝暦2年(826年)に敬宗が宦官の劉克明らによって殺され、王守澄によって文宗が擁立される、そして同年、裴度が宰相に復帰する。李逢吉は裴度の排斥を試みるが失敗し、宰相職を去った。裴度は大和3年(829年)に李徳裕を中央に呼び戻して兵部侍郎とし、さらに宰相に推薦した。しかし先に宰相になっていた李宗閔がこれに反対し、李徳裕・裴度は地方に出された。
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