党主席・総書記就任とは? わかりやすく解説

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党主席・総書記就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:52 UTC 版)

胡耀邦」の記事における「党主席・総書記就任」の解説

1980年5月29日チベット視察訪れ、その惨憺たる有様落涙したと言われラサ共産党幹部らに対す演説にて、チベット政策の失敗明確に表明して謝罪し共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき信教の自由改め保証した上で僧院再建事業着手させ、外国人旅行者にもチベット開放した。しかし、この政策党幹部から激しく指弾され胡耀邦更迭撤回された。 1982年9月第12回党大会党規約改正され党主席制が廃止され総書記制が導入されると、胡耀邦引き続き党のトップとして中央委員会総書記就任し改革開放路線自由化路線打ち出した。「4つの近代化」の具体目標を、20年間で工業・農業生産額を4倍にし、国民生活を「中程度」にすることしたまた、この党大会あわせて胡耀邦55歳以下の若手幹部抜擢行い江沢民李鵬胡錦濤112名が中央委員中央候補委員選出された。この頃胡啓立政治局常務委員)ら、胡耀邦中心とした共青団グループ改革派として活躍。第4代総書記胡錦涛胡耀邦連なる共青団出身である。1986年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進した。 しかし、1985年5月10日香港雑誌百姓』(庶民記者陸鏗(英語版中国語版)のインタビューで、自身進歩派表現されたことに反対せず、軍事委員会主席には用が無いと発言したため鄧小平不興を買い、後に総書記解任され一因となった。また同郷先輩である王震を南轅北轍と言ったため、総書記就任悪くなっていた関係は修復不可能になり、批判激しさ増した

※この「党主席・総書記就任」の解説は、「胡耀邦」の解説の一部です。
「党主席・総書記就任」を含む「胡耀邦」の記事については、「胡耀邦」の概要を参照ください。

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