党争の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:10 UTC 版)
中国の貴族は魏晋南北朝時代がその全盛期であり、安史の乱から著しく衰退し、朱全忠による白馬の禍により完全に滅亡、新興勢力である士大夫に取って代わられたと考えられている。牛李の党争もまた新興勢力の進出を促した一面があると考えられるが、どのような理由をもって促したのか。 陳寅恪のように牛李の党争を「新興勢力」対「山東士族」の争いと考えるならば、牛党が勝った結果新興勢力が新出するようになった、と簡単に考えられる。しかしこのようなマルクス主義の階級闘争史観からの党争理解は既述のように否定的に捉えられている。李党は存在しないという岑仲勉の考えは退けられているが、両派の出自の点が党争の決定的要因ではないと考えるのが多数派であり、そのなかでも「李徳裕は進歩的・積極的な政治家、牛派は姑息な現状維持派」「李徳裕のレッテル張りによる牛李を排斥しようとしたもの」「党争とは結局官僚大地主内での権力争いに過ぎない」とおのおの評価が分かれている。 中国での研究はこのように、牛派・李派どちらが是でどちらが非かということに力点が置かれており、新興勢力が進出を果たした要因については言及が薄い(このような傾向に中国の政治状況が反映されていることにも留意すべきであろう)。この点を明確にしたのが礪波の論稿である。礪波は既述のように両派は出自の上に於いては本質的な差は無く、両派が行った辟召が新興勢力の進出を促したとする。
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