党主席兼首相就任
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1969年4月の第9回党大会では中央委員となった華国鋒は、1970年11月には湖南省委員会第一書記に選出され、併せて省軍区第一政治委員、省軍区党委員会第一書記に任ぜられた。 1971年には中央に引き上げられ、党政治局会議に参加した。1973年8月30日の第10期党中央委員会第1回全体会議(第10期1中全会)で中央政治局委員に昇格。同年、公安部長(大臣)に就任した。 毛沢東に信頼され、1975年には国務院副総理(副首相)に昇進。1976年1月8日に周恩来総理が死去すると、毛沢東の意向により国務院総理代行とする決定がなされ、2月2日に党中央の「1号文件」として通知された。 4月7日、毛沢東の指示に基づいた党政治局会議の決議により、華国鋒は後継の国務院総理兼党中央委員会第一副主席に任命され、毛に次ぐ序列第2位の地位に抜擢された。 1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ(你办事,我放心)」という遺言にあたる自筆メモを入手したとされている。 同年9月9日、毛沢東が党主席在任のまま死去。10月6日、文化大革命の主導者であった江青や張春橋らの四人組を逮捕。これにより、毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させた。翌10月7日、中央政治局決議により党中央委員会主席および党中央軍事委員会主席に就任し、これは1977年7月21日の第10期党中央委員会第3回全体会議で追認された。同年8月の第11回党大会において、1966年以来11年にわたった文化大革命の終結を宣言した。 権力基盤の脆弱な華国鋒は、常に毛沢東の威光を借りようとした。1976年11月には毛主席紀念堂を着工して、翌年9月の死去1周年に完成させており、建物の正面に「毛主席紀念堂」の金文字の揮毫を自ら行っている。1977年10月には「二つのすべて(两个凡是)」の方針を示し、文化大革命には是々非々の立場を表明したが、かつて実権派として失脚・迫害された鄧小平らからの強い批判を浴びた。
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