華頂宮博厚親王とは? わかりやすく解説

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華頂宮博厚親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 01:40 UTC 版)

博厚親王
華頂宮
続柄

全名 博厚(ひろあつ)
身位 親王
敬称 殿下
出生 1875年1月18日
死去 (1883-02-15) 1883年2月15日(8歳没)
埋葬 豊島岡墓地
父親 華頂宮博経親王
母親 博経親王妃郁子
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華頂宮博厚親王(かちょうのみや ひろあつしんのう、1875年明治8年〉1月18日 - 1883年〈明治16年〉2月15日)は、日本皇族

生涯

華頂宮博経親王第一王子で、伏見宮邦家親王の孫。母は南部利剛の長女、郁子

1876年(明治9年)5月24日、父の博経親王の薨去を受けて、華頂宮の家督を継承する。明治初年に定められた皇族の範囲・賜姓皇族の方針によると、世襲親王家以外の親王家は一代宮家と定められており、父王死後の博厚親王は臣籍降下するはずだったが、熾仁親王の請願による明治天皇の意向により皇族の身分を保ち、1歳3ヶ月で家督を継いだ。

1883年(明治16年)2月15日、明治天皇猶子となり親王宣下を受けた同日、ジフテリアにより薨去。8歳没。

博厚親王は幼少であったために継嗣はなく、伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。その後、博恭王は本流である伏見宮を継承するはずだった邦芳王が病弱であったため、伏見宮に復籍し家督を相続。華頂宮は博恭王の第二王子、博忠王が継承することになる。

なお、博厚親王は親王宣下によって親王身位を授けられた最も若い人物である(親王宣下を受けた人物としては最後から2番目)。

脚注

注釈

出典

参考文献

外部リンク


華頂宮博厚親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 16:39 UTC 版)

華頂宮」の記事における「華頂宮博厚親王」の解説

詳細は「華頂宮博厚親王」を参照 第2代博厚親王は、明治8年1875年誕生当初身位「王」であった明治元年制定皇族範囲定めた皇族賜姓成規によれば本来、華頂宮皇族としては博経親王一代限り臣籍降下するはずであったが、父・博経親王皇族として働きや、博厚王が当時わずか6歳臣籍降下されることの悲観もあり、他の皇族たちによる存続嘆願もあり、明治天皇特旨をもって皇族身分留まることとなり、さらに明治天皇猶子として親王宣下受けた。しかし博親王短命であり、明治16年1883年)に8歳薨去した。

※この「華頂宮博厚親王」の解説は、「華頂宮」の解説の一部です。
「華頂宮博厚親王」を含む「華頂宮」の記事については、「華頂宮」の概要を参照ください。

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