博経親王とは? わかりやすく解説

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華頂宮博経親王

(博経親王 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 03:00 UTC 版)

華頂宮博経親王
華頂宮
華頂宮博経親王
続柄

身位 親王
敬称 殿下
出生 1851年4月19日
死去 (1876-05-24) 1876年5月24日(25歳没)
埋葬 豊島岡墓地
配偶者 博経親王妃郁子
子女 華頂宮博厚親王
父親 伏見宮邦家親王
母親 堀内信子
役職 弾正尹
議定
会計事務総督
海軍少将
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華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつねしんのう、嘉永4年3月18日1851年4月19日) - 明治9年(1876年5月24日は、日本の皇族海軍軍人。官位は議定会計事務総督、海軍少将徳川家茂猶子伏見宮邦家親王第12王子、母は堀内信子。宮家華頂宮創設者。

経歴

幼少時の称号は隆宮。嘉永5年(1852年)に出家。知恩院門跡となり、知恩院を相続。尊秀と号する。万延元年(1860年)に孝明天皇猶子となり、同日に徳川家茂の猶子となる。万延2年(1861年)に博経の名を賜り、その翌日に親王宣下を受ける。翌月に落飾し、知恩院門跡・尊秀入道親王となる。

慶応4年(1868年)、勅命により復飾し博経親王に復名。翌月に宮家を創設し、宮号を華頂宮とした。宮号は、知恩院の山号「華頂山」にちなんでいる[1]。その後は、和学校御用掛・弾正尹議定・会計事務総督を歴任。

1870年(明治3年)よりブルックリンに留学。1872年(明治5年)から東隆彦の名でアナポリス海軍兵学校に入学し、海軍について学んだ[2]練習艦での訓練中の負傷後に肺病を患い、翌1873年に病気帰国。

帰国後に南部郁子と結婚し、1875年(明治8年)に第一王子の博厚王が誕生。同年、勲一等旭日大綬章に叙せられ、翌1876年(明治9年)に海軍少将となるも、同年5月24日に薨去。25歳没。

経歴

嘉永4年(1851年)3月18日 誕生
嘉永5年(1852年)10月12日 知恩院相続
万延元年(1860年)8月27日 孝明天皇猶子
万延元年(1860年) 徳川家茂猶子
万延元年(1860年)11月29日 親王宣下・名を博経とする
万延元年(1860年)12月29日 落飾・知恩院門跡・法名尊秀入道親王
慶応4年(1868年)1月7日 復飾・復名博経親王
慶応4年(1868年)1月10日 華頂宮家創設
明治元年(1868年)9月18日 元服
明治3年(1870年)6月 アメリカ留学
明治5年(1872年)8月 病気帰国
明治9年(1876年)5月13日 任海軍少将
明治9年(1876年)5月24日 薨去

血縁

博経親王は南部利剛の長女・郁子を妃とし、一男(博厚親王)を儲けた。

脚注

  1. ^ 鎌倉市. “旧華頂宮邸沿革”. 鎌倉市. 2025年8月3日閲覧。
  2. ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1873

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