聖護院宮嘉言親王とは? わかりやすく解説

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聖護院宮嘉言親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/18 23:31 UTC 版)

聖護院宮嘉言親王
聖護院宮
続柄

全名 嘉言(よしこと)
称号 多嘉宮 (たかのみや)
身位 一品・親王
出生 文政4年旧1月26日1821年2月28日
死去 慶応4年旧8月11日1868年9月26日)(享年47)
父親 伏見宮邦家親王
母親 上野寿野
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聖護院宮嘉言親王(しょうごいんのみや よしこと しんのう)、文政4年旧1月26日1821年2月28日) - 慶応4年旧8月11日1868年9月26日))は、幕末日本皇族伏見宮邦家親王の第2王子。母は上野寿野。幼称は多嘉宮 (たかのみや)。

生涯

天保2年(1831年)に聖護院出家し、雄仁法親王と名乗った。同年、光格天皇猶子となり、天保3年(1832年)には親王宣下を受けて、嘉言と命名される。同年、京都山科の門跡寺院曼殊院に入室した。

王政復古の大号令を契機に慶応4年(1868年聖護院宮を称して還俗し、再び嘉言親王を名乗る。園城寺長吏を止められ、一品に昇叙されて、内国事務科内国事務総督となるが、直後に薨去。47歳。弟宮の智成親王が聖護院宮を継承した。

血縁

外部リンク


先代
-
聖護院宮
初代:1868年
次代
智成親王

聖護院宮嘉言親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:48 UTC 版)

北白川宮」の記事における「聖護院宮嘉言親王」の解説

先代嘉言親王は、1821年文政4年)に誕生1831年天保2年)に出家し雄仁法親王名乗った同年光格天皇猶子となり、1832年天保3年)に親王宣下1868年慶応4年明治元年)に還俗し聖護院宮名乗るが、同年薨去聖護院宮は、弟宮で元は同じ聖護院預かりとなっていた智成親王継承した

※この「聖護院宮嘉言親王」の解説は、「北白川宮」の解説の一部です。
「聖護院宮嘉言親王」を含む「北白川宮」の記事については、「北白川宮」の概要を参照ください。

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