祭神の変遷と別称「鹿島社」の由来
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「深見神社」の記事における「祭神の変遷と別称「鹿島社」の由来」の解説
『総国風土記』では「雄略天皇22年(478年)3月に祀る所、闇龗神なり」とあり、創建当初よりの祭神は闇龗神であったと考えられている。 一方、別称の「鹿島社」という名称は、かつて当地の領主であった坂本家が鹿島神宮(現・茨城県に鎮座)の祭神を当社に勧請したためとされる。当社の祭神である武甕槌神はこの時に祀られたものといわれており、神奈川県神社庁著のかなしん出版『かながわの神社・ガイドブック』では、「江戸時代に入ってから坂本小左衛門重安が鹿島神宮の分霊である武甕槌神を祭神に置いたものである」と解説している。 この際にこれまでの祭神であった闇龗神は御倉稲荷神社の方に合祀されたと思われ、以来、武甕槌神のみが当社本殿の祭神とされてきた経緯がある。その後、明治9年(1876年)の火事以降に社殿も造られることなく荒廃していた当社の復興の一環として、明治42年(1909年)、同地域の末社・諏訪神社より建御名方神が合祀され、境内に仮殿が造られたのは前述の通りである。さらに、平成24年(2012年)には創建当初の祭神と思われる闇龗神が御倉稲荷神社より合祀され、当社の祭神は闇龗神、武甕槌神、建御名方神の三神となった。
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