文献面を中心とした批判とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 文献面を中心とした批判の意味・解説 

文献面を中心とした批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:17 UTC 版)

トルテカ帝国」の記事における「文献面を中心とした批判」の解説

大井邦明は、ヒメネス・モレーノ説の図式として、ミシュコアトルのときに、 「クルワカン拠点征服活動をくり広げ、」 セ・アカトル・トピルツインのときに 「汎メソアメリカ勢力成長していく。その後九八七年に」「政争敗れてトゥーラ去りユカタン地方へと移動し、マヤ・トルテカ文明誕生させた。トルテカ帝国はやがて徐々に衰退し始め一一六二年トゥーラ最後の王ウェマクの死で終焉迎える。このトルテカ帝国指標となる文化要素はマサパ系土器冶金術などとされる。」(大井1985,p.191) と紹介している。大井は、「トルテカ帝国」について、ヒメネス・モレーノが文献年代がすべて間違っていて、改ざんされており、異なった都市異なった人物の歴史とされているのは、特定の都市特定の一人物の記述であるという前提資料操作行っている、とし、文献年代基本的に正しく改ざん記述内容のみにとどまる、とした。具体的には、トルテカ・チチメカ族による歴史書『トルテカ・チチメカ史』でトゥーラ到着したのは1064年という記述がある一方で、『クアウティトラン年代記』では、同じ年にトルテカ時代終焉したという記述があること、チチメカ族トルテカ族自称しているだけで、トゥーラ建設したとは述べていないこと、同じようチチメカ族テオテナンゴという都市征服後、テオテナンカと名のっていることなどを挙げている。しかし、この大井説は、メソアメリカ史や考古学者悩ましているチチメカとヒメネス・モレーノの資料操作矛盾混乱をすっきり解決できるという大井主張にもかかわらず欧米中心とする「主流派研究者には全く受け入れられていない1960年代には、トルテカ帝国は、メキシコ東岸から西岸までメキシコ中央部大部分支配した考えられていたが、このようなトルテカ帝国説の根拠として提示されたものの多くきわめて不完全であってタウンゼントは、「考古学上のたしかな手がかりほとんどない」(タウンゼント2004,p.68)と、前置きしつつ、せいぜいトゥーラ周辺からやや西方トルーカ盆地からメキシコ盆地一部までを含む狭い範囲とどまりアステカのように貢納強いて逆らう者は軍事力によって討伐する、という形であったろう、としている。

※この「文献面を中心とした批判」の解説は、「トルテカ帝国」の解説の一部です。
「文献面を中心とした批判」を含む「トルテカ帝国」の記事については、「トルテカ帝国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「文献面を中心とした批判」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「文献面を中心とした批判」の関連用語

文献面を中心とした批判のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



文献面を中心とした批判のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトルテカ帝国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS