即位と第二次パーニーパットの戦い
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「アクバル」の記事における「即位と第二次パーニーパットの戦い」の解説
翌1556年1月、フマーユーンが図書館の階段から落ちて事故死した。2月14日、アクバルはデリーにおいて13歳の若さで即位した。なお、宰相のバイラム・ハーンが彼の摂政として補佐にあたることとなった。 だが、即位当初、アクバルの統治は不安定そのものであった。シェール・シャーの開いたスール朝などの敵対勢力がデリーの近辺にも残り活発な活動を行っており、その3人の王ムハンマド・アーディル・シャー、イブラーヒーム・シャー、シカンダル・シャーは健在であった。だが、スール朝のヒンドゥー武将ヘームーは彼ら3人よりもさらに危険であった。ヘームーはもともと野菜売りの出であったが、スール朝の軍造司令官・宰相にまで上りつめた人物であった。 フマーユーン死後すぐ、ヘームーは混乱に乗じて挙兵し、デリーとアーグラを占領した。10月にデリーが占領されたとき、アクバルとバイラム・ハーンはパンジャーブ地方でスール朝の残党討伐にあたっていたが、ジャランダルにいた彼らにその知らせが届くと、皇帝の側近である将校には恐怖が走った。軍勢の数は帝国軍2万に対し、ヘームーの軍勢は10万を超していたからだ。 将校らはこの大軍と戦うことは無理があるとし、ひとまずカーブルに引き上げたうえで新たに兵員を増やした後、再びインドを征服することを提案した。だが、アクバルとバイラム・ハーンは今すぐ戦うべきだとし、バイラム・ハーンは何も抵抗せずにデリーを敵に明け渡したタールディー・ベグを処刑したため、退却を主張した将校は黙り、軍は士気を取り戻した。 同年11月5日、アクバル率いる軍勢はデリー北郊のパーニーパットでヘームーの軍と激突した(第二次パーニーパットの戦い)。パーニーパットは起伏が連なる広原地帯であり、1526年にはこの地でアクバルの祖父バーブルがローディー朝を破り、ムガル帝国を創始した歴史的な地でもあった。 両軍の戦力の差は圧倒的で、帝国軍はヘームーの大軍に両翼を包囲され、敗北寸前に陥った。ヘームーが勝利したと思われたとき、象の上に乗って指揮をしていたヘームーが片目を矢で射られて意識を失い、彼の軍は混乱に陥った。 数時間後、ヘームーの大軍は潰走し、ヘームー自身も捕らえられ、アクバルの前に突き出された。バイラム・ハーンはアクバルに(異教徒を自らの手で殺害した者に与えられる)「ガーズィー」の称号を得るため、アクバル自らヘームーを処刑するように促した。だが、アクバルは抵抗できない敵に自ら手を下すことを拒み、バイラム・ハーンにその役目を任せ、自らはその剣に手を添えるにとどめた。こうして、ヘームーは処刑され、第二次パーニーパットの戦いは終結した。
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