神宗期
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最も早く王安石批判を展開したのは、1069年、当時御史中丞を勤めていた呂誨である。呂誨の弾劾は、後に旧法党から先見の明があったと称揚されることになるのだが、この時にはまだ新法は施行されておらず、その内容は人格攻撃と過去の過失に対する言いがかりに終始しており、単に異数の出世をした王安石に対する嫉妬によるものであった。 新法の施行後は、元老では欧陽脩・富弼・文彦博・韓琦ら、若手では司馬光・程顥・蘇軾・蘇轍兄弟などによる批判が相次いだ。これら新法に反対した人物たちを総称して旧法党と呼ぶ。ただし実際には彼らは党派としてまとまっていたわけではなく、新法に対する態度もそれぞれ異なっていた。これに対して新法を推進する側を新法党と呼ぶ。 多くの反対意見にもかかわらず、王安石は容赦なくこれを排除して新法を実行していった。1070年、蘇轍は制置三司條例司に属していたが、呂恵卿と意見が合わず、河南府推官(次官)に左遷された。富弼は宰相を辞任して判亳州に転出、代わって王安石が宰相となり、制置三司條例司を廃止した。程顥は京西路同提点刑獄に左遷。1071年、欧陽脩は致仕(引退)を願い出て潁州(現在の安徽省阜陽)に隠棲。蘇軾は杭州通判に左遷。司馬光は洛陽へ去り、以後は『資治通鑑』の編纂に専念する。程顥は鎮寧軍判官に転出。1075年、韓琦は永興軍節度使とされ、途上で死去した。しかし多くの反対意見を前に、王安石に全幅の信頼を置いていたはずの神宗も迷い始める。1074年は旱魃に見舞われ、飢えた民衆が巷にあふれた。地方官の鄭侠がその惨状を絵に描き、「これは新法に対する天からの警告(天譴)である。新法は廃止すべきである」との上奏をし、神宗は大きな衝撃を受ける。司馬光もこれに同調して新法批判の上奏を行った。 さらに王安石の政権内部でも、新法の屋台骨の一つである市易法をめぐって亀裂が生じていた。市易法は、上記のように中小商人の保護という名目のもと、物価調整によって物品の値段を下げることで、政府がより安い値で物品を調達できるようにする法で、中小商人たちに低利率で運用資金の貸し出しがなされていた。王安石は市易法の実施に力を入れており、腹心の呂嘉問にその運営を任せていた。しかし、呂嘉問は物品の価格を本来の価格とつりあわなくなるまで強引に下げてしまい、経済不況を引き起こしてしまった。さらに大きな問題として、貸し出し資金の運営の方面でも、呂嘉問は借り入れを望まない中小商人にまで、資金を無理に貸し付け、借り入れた者に対しては厳しい取立てを行った。このような呂嘉問による強引な市易法の運営は、全国で問題を引き起こし、王安石を支える新法党内部でも「これでは悪辣な大商人・大地主と同じ。呂嘉問を解任して、市易法の運営方法も改善すべきだ」という批判が噴出した。特に王安石の右腕といわれた曾布が批判の先頭に立ち、神宗にも上奏文を提出する。結局、王安石はこの流れを受け、呂嘉問を更迭し、市易法をやや緩めざるを得ないところまで追い込まれた。また宮廷内部でも、市易法の実施により出入りの大商人からの上納金が減少した上、統制経済で資産運用が行えなくなったことに大いに不満を募らせるようになり、神宗に対して新法廃止の圧力を加えてきた。 上記のような改革を揺るがす事件が相次いで生じたため、1074年、王安石は知江寧府に転出し、後任には王安石の同僚である韓絳と腹心の呂恵卿が就いた。神宗としては王安石という「反新法党の中心目標」をはずすことで騒動をおさめ、新法設計者の呂恵卿が政権の要に座ることで、新法をより豊かに運用してくれることを期待していた。しかし、呂恵卿は王安石が朝廷から去ったのを幸いに、新法党を自らの私党とすべく、仲の悪い曾布らを追放し、自らの身内を大量に取り立てていった。期待されていた改革実行に関しても、上司の韓絳を無視して新法を勝手に改造すると同時に、新法を反故にする法律も制定するなど乱脈な政権運営を行った。 呂恵卿の暴走に慌てた神宗と韓絳は、翌1075年に王安石を中央に呼び戻そうと江寧に使者を出す。この動きを察知した呂恵卿は自らの地位を失うことを恐れ、朝廷中に王安石の悪口を撒き散らし、神宗にも讒言を行った。しかしこの行動はかえって神宗の不信を買い、王安石が宰相に返り咲き、呂恵卿は地方に左遷されることとなった。宰相に返り咲いた王安石は、早速政策を全て元に戻し、呂恵卿が混乱させた新法党内部を再び引き締めていった。しかし神宗はこの頃親政を志しており、王安石に権限が集中するのを好まなくなっていた。このような神宗と王安石の隙間を見透かしたように、呂恵卿が政権内部に揺さぶりをかけてくる。加えて息子の王雱が病死するという身内の不幸まで重なって、王安石の気力も尽きてしまうことになる。王安石は宰相復帰からわずか1年余りで再び知江寧府に転出願いを提出し、まもなく政界から引退した。 熙寧は10年で終わり、1078年より元豊と改元する。この時期は王安石が抜擢した王珪・蔡確といった人材が成長しており、彼らが新法党内部を引き締めていった。旧法党人士の反対運動も、次席宰相に就任した蔡確が人事権と警察権を活用して徹底的に押さえつけた結果、鳴りを潜めるようになった。新法改革の全国実施の成果と銅銭過剰供給や交子の大量発行によるインフレ金融政策推進や貿易振興により、国庫には潤沢な資金が入ってくるようになった。その資金を市易法の低率融資や雇用対策費用に充てて徴税層に還流させることで、さらに景気が上がり治安も改善された。神宗は国家財政の好転と政治の安定化を承けて、1080年から前述の「元豊の改革」に取り組み、複雑な二重官制を一元化した。新官制を打ち立てる際、神宗は新旧両派から人材を抜擢し、彼らを融和させようと考えたが、「まだ改革は完成していない。彼ら(特に司馬光)を呼び戻すのは早すぎる」と大臣から諫言されたため、新官職には新法党の人士全員が横滑りすることになった。このような流れがありながらも、旧法党への政治的締め付けはやや緩められることになった。また、なにより官制改革が実行されたことで「官僚機構の煩雑化・役人の人件費負担の増大」という国を長年苦しめていた問題がようやく解決に向けて動きだした。 一連の内政問題を解決した神宗は積極的な対外政策にとりかかり、官制改革が成った翌年の1082年、西夏を攻撃する。しかし結果は兵1万人を失うという惨敗に終わった。このほか交趾への遠征もなされたが、これも失敗に終わる。神宗による対外政策は国費を損なうだけの結果に終わったが、損失は軽微なものにとどまり、新法実施で安定する国内に影響は及ばなかった。 王安石が政権から去った後も神宗によって改革は継続され、このまま定着するかに思われた。だが1085年(元豊8年)3月、神宗が38歳の若さで崩御してしまう。
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