神宗期とは? わかりやすく解説

神宗期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 22:00 UTC 版)

新法・旧法の争い」の記事における「神宗期」の解説

最も早く王安石批判展開したのは、1069年当時御史中丞勤めていた呂誨である。呂誨の弾劾は、後に旧法党から先見の明があったと称揚されることになるのだが、この時にはまだ新法施行されておらず、その内容人格攻撃過去過失対す言いがかり終始しており、単に異数出世をした王安石対す嫉妬によるものであった新法の施行後は、元老では欧陽脩富弼文彦博韓琦ら、若手では司馬光程顥蘇軾蘇轍兄弟などによる批判相次いだ。これら新法反対した人物たちを総称して旧法党と呼ぶ。ただし実際には彼らは党派としてまとまっていたわけではなく新法対す態度それぞれ異なっていた。これに対して新法推進する側を新法党と呼ぶ。 多く反対意見にもかかわらず王安石容赦なくこれを排除して新法実行していった。1070年蘇轍制置三司條例司属していたが、呂恵卿意見合わず河南府推官(次官)に左遷された。富弼宰相辞任して亳州転出、代わって王安石宰相となり、制置三司條例司廃止した程顥は京西路同提点刑獄に左遷1071年欧陽脩致仕引退)を願い出て潁州現在の安徽省阜陽)に隠棲蘇軾杭州通判左遷司馬光洛陽へ去り以後は『資治通鑑』の編纂専念する程顥鎮寧判官転出1075年韓琦永興節度使とされ、途上死去した。しかし多く反対意見前に王安石全幅の信頼置いていたはずの神宗迷い始める。1074年旱魃見舞われ飢えた民衆が巷にあふれた地方官の鄭侠がその惨状を絵に描き、「これは新法対す天から警告天譴)である。新法廃止すべきである」との上奏をし、神宗大きな衝撃を受ける司馬光もこれに同調して新法批判の上奏を行った。 さらに王安石政権内部でも、新法屋台骨一つである市易法めぐって亀裂生じていた。市易法は、上記のように中小商人保護という名目のもと、物価調整によって物品値段下げることで、政府がより安い値で物品調達できるようにする法で、中小商人たち低利率で運用資金貸し出しなされていた。王安石市易法実施力を入れており、腹心呂嘉問にその運営任せていた。しかし、呂嘉問物品価格を本来の価格とつりあわなくなるまで強引に下げてしまい、経済不況引き起こしてしまった。さらに大きな問題として、貸し出し資金運営方面でも、呂嘉問借り入れ望まない中小商人にまで、資金無理に貸し付け借り入れたに対して厳し取立て行ったこのような呂嘉問による強引な市易法運営は、全国問題引き起こし王安石支え新法党内部でも「これでは悪辣な大商人大地主と同じ。呂嘉問解任して、市易法運営方法改善すべきだ」という批判噴出した。特に王安石右腕といわれた曾布批判先頭に立ち、神宗にも上奏文を提出する結局王安石はこの流れを受け、呂嘉問更迭し、市易法をやや緩めざるを得ないところまで追い込まれた。また宮廷内部でも、市易法実施により出入り大商人からの上納金減少した上、統制経済資産運用が行なくなったことに大いに不満を募らせるようになり、神宗に対して新法廃止圧力加えてきた。 上記のような改革揺るがす事件相次いで生じたため、1074年王安石は知江寧府転出し後任には王安石同僚である韓絳と腹心呂恵卿就いた神宗としては王安石という「反新法党中心目標」をはずすことで騒動をおさめ、新法設計者呂恵卿政権の要に座ることで、新法をより豊かに運用してくれることを期待していた。しかし、呂恵卿王安石朝廷から去ったのを幸いに新法党を自らの私党とすべく、仲の悪い曾布らを追放し、自らの身内大量に取り立てていった。期待されていた改革実行に関しても、上司の韓絳を無視して新法勝手に改造する同時に新法反故にする法律制定するなど乱脈な政権運営行った呂恵卿暴走慌てた神宗と韓絳は、翌1075年王安石中央呼び戻そう江寧使者を出す。この動き察知した呂恵卿は自らの地位を失うことを恐れ朝廷中に王安石悪口撒き散らし神宗にも讒言行った。しかしこの行動はかえって神宗不信を買い、王安石宰相返り咲き呂恵卿地方左遷されることとなった宰相返り咲いた王安石は、早速政策全て元に戻し呂恵卿混乱させた新法党内部を再び引き締めていった。しかし神宗この頃親政志しており、王安石権限集中するのを好まなくなっていた。このような神宗王安石隙間見透かしたように、呂恵卿政権内部揺さぶりをかけてくる。加えて息子王雱病死するという身内の不幸まで重なって王安石気力尽きてしまうことになる。王安石宰相復帰からわずか1年余りで再び知江寧府転出願い提出し、まもなく政界から引退した熙寧10年終わり1078年より元豊改元する。この時期王安石抜擢した王珪・蔡確といった人材成長しており、彼らが新法党内部引き締めていった。旧法党人士反対運動も、次席宰相就任した蔡確人事権警察権活用して徹底的に押さえつけた結果鳴りを潜めるようになった新法改革全国実施成果銅銭過剰供給交子大量発行によるインフレ金融政策推進貿易振興により、国庫には潤沢な資金入ってくるようになった。その資金市易法低率融資雇用対策費用充て徴税層に還流させることで、さらに景気上がり治安改善された。神宗国家財政好転政治の安定化承けて、1080年から前述の「元豊の改革」に取り組み複雑な二重官制一元化した。新官制を打ち立てる際、神宗新旧両派から人材抜擢し、彼らを融和させよう考えたが、「まだ改革完成していない。彼ら(特に司馬光)を呼び戻すのは早すぎる」と大臣から諫言されたため、新官職には新法党人士全員横滑りすることになったこのような流れありながらも、旧法党への政治的締め付けはやや緩められることになったまた、なにより官制改革実行されたことで「官僚機構煩雑化・役人人件費負担増大」という国を長年苦しめていた問題がようやく解決向けて動きだした。 一連の内政問題解決した神宗積極的な対外政策とりかかり官制改革成った翌年1082年西夏攻撃する。しかし結果は兵1万人を失うという惨敗終わった。このほか交趾への遠征なされたが、これも失敗に終わる。神宗による対外政策国費損なうだけの結果終わったが、損失軽微なものにとどまり新法実施安定する国内影響は及ばなかった。 王安石政権から去った後も神宗によって改革継続されこのまま定着するかに思われた。だが1085年元豊8年3月神宗38歳若さ崩御してしまう。

※この「神宗期」の解説は、「新法・旧法の争い」の解説の一部です。
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