神学部時代
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「神学部時代」の解説
1909年9月30日、オーストリアのフォールアルベルク地方のフェルトキルヒ近郊ティジスのイエズス会修練士修練期用新入生宿舎に登録する。しかし10月13日、病気を理由に修練士監督より除籍される。フライブルク大学神学部に冬学期から入学し、入寮当日から図書館でフッサールの『論理学研究』を借りだし、研究を始めた。ブレンターノ学位論文を理解するのに役立つと考えたからだという。カール・ブライヒ教授からヘーゲルとシェリングを、ヴィルヘルム・フェーゲ教授から芸術史を、ゴットフリート・ホーベルクの聖書解釈学、ユリウス・マイアーのカトリックにおける所有権講座、ゲオルク・フォン・ベロウの憲法史講座を聴講した。ゲオルク・フォン・ベロウは国家は人間の本質的な絆であり文化の根源で、等族制を擁護し、民主主義はドイツ民族を脅かすものであり、ユダヤ人が普及させていると考え、第一次世界大戦時にはドイツ祖国党の指導者の一人であった。 1910年8月15日、メスキルヒ隣村のクレーンハイツシュテーテンでアーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ記念碑除幕式に参列し、その感想文をミュンヘンの雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ(公衆評論)』に発表した。アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの著書『ウィーン覚書』は1683年のトルコ軍によるウィーン包囲に際して書かれ、トルコ人は「紛れも無いアンチ・キリスト、虚栄の塊の看守、貪欲な虎、呪われた世界破壊者」とされ、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたとし、「神はドイツ人を見放すことはない」と説教し、『幕屋II』では「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と書いている。こうした反ユダヤ主義は、カトリックでは中世からの伝統であり、アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラの説教はオーストリアや南ドイツでの反ユダヤ主義の発展にも貢献したとされ、またクレメンス・マリア・ホフバウアーをその精神上の父とし、啓蒙合理主義を主要な敵とするキリスト教社会運動(Christlichsoziale Bewegung)に影響を受けたカール・ルエーガーのキリスト教社会党(Christlichsoziale Partei)へと受け継がれた。アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラ記念碑はウィーン市長となっていたカール・ルエーガーから1000クローネの援助を受けて建設されたものであった。また雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ』はルエーガーの「祖国を救うために、ユダヤ人に握られている自由主義と戦う」と主張した論文を掲載していた。ハイデッガーは銅像について「天才的な頭(老年のゲーテに見紛うほど似ている)を見ると、広く浮きだしている額の背後には、多年風雨に耐えてきた不屈のエネルギーと、脈打ち続ける行為への衝動を実行に移さんとする深く汲み尽くせない精神とが宿っている」「アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラのようなタイプの人は、静かに国民の魂の中に保持されて、我々のためになるものでなければならない」と書いた。この論文ではウィーンのリヒャルト・フォン・クラーリク(Richard Kralik)のカトリック保守主義と、カール・ムートのモダニズムとの間で起こっていた文学論争についても主題となっており、ハイデッガーはクラーリク派の「グラール同盟」に参加していた。クラーリクの立場はモンタノス派の厳格な禁欲主義であった。クラーリク派の学生同盟は、若者を一つの「共同社会」に結集させ、近代文明や技術に公然と対立して「素朴な生」を獲得することを使命としていた。クラーリクは「すべての民族には、ダニエル書にもあるように、それぞれに独自の守り神ないし守護の天使、導きの守護神がある。しかし身体の四肢が、それぞれに同等の尊厳はあるにしても、違った機能を果たしているように、民族が異なり、国家が異なると、神の摂理によって、異なった役割、異なった使命が割当られる。[…]重要なのは、種族ではなく、肉体でもなく、精神、魂である。あの偉大な歴史家タキトゥスが、当時のゲルマン人をその他すべての民族の中から選び出したのも、彼がゲルマンの精神に畏敬の念を抱いていたというただそれだけの理由からであった」と書いており、これはカトリックのオーストリアが主導する「新しいドイツ国民の神聖ローマ帝国」の理念と結びついたものであった。クラーリクはまたカール・ルートヴィヒ・フォン・ハラー(Karl Ludwig von Haller)、フリードリヒ・フォン・シュレーゲル、フランツ・フォン・バーダーらのロマン主義的カトリックを引き継いで等族国家をモデルにした。ファリアスはクラーリクが等族国家をモデルにして社会民主主義と対抗したことは、ハイデッガーが共産主義に対抗してナチズムを持ちだした仕方と同一であると論じた。クラーリクは暫定的な国歌の歌詞として「神よ、我らの国を守り給え、ユダヤ人から我らの国を守り給え」と公表してもいる。ハイデッガーはクレメンス・マリア・ホーフバウワーやウィーンに住んだフリードリヒ・フォン・シュレーゲルの生の哲学に共感している。 神学部在籍時にハイデッガーは、教会の権威を保守しモダニズムに対抗するカトリックアカデミー同盟 (Katholischen Akademiker Verbandes)の月刊誌「アカデミカ−」に8篇寄稿した。「F.W.フェルスター(Friedrich Wilhelm Foerster)の『権威と自由 教会の文化問題についての考察』書評」では、「教会がその永遠の真理という宝を守ろうとして、モダニズムの破壊的影響を防ぐのは当然のことである」と書かれた。 ジグマリンゲン郡のドナウ川上流沿いのボイロン村にあるベネディクト派のボイロン修道院をハイデッガーは好み、大学が休暇になると自転車でメスキルヒからボイロンまで行き、405,000冊というドイツ内の修道院で最大の蔵書数を保管する図書室で勉強し、司書P・アンゼルムと親しくなった。1930年代にもハイデッガーはボイロン修道院をたびたび訪れ、図書室でアウグスティヌス研究を行った。
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