政治的影響力の減退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 07:19 UTC 版)
「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事における「政治的影響力の減退」の解説
有力な協力者の多くは、一部を除いて、ジョーンズがガイアナに脱出した後には教団との関係を断ち切った。ウィリー・ブラウンは、この教団への攻撃は「教団の有効性の尺度」であると述べ、ハーブ・カーン(英語版)は、ニュー・ウェスト誌の記事の真実性を疑問視するコラムをクロニクル誌に書いた。サン・リポーター誌もまた教団を擁護した。 ジョーンズがガイアナに脱出した直後の1977年7月31日、教団はブラウン、ミルク、アグノスなどが参加した政敵に対する集会を開催した。この集会で、ブラウンは次の様に述べている。「ジム・ジョーンズの様な人物がこの様な状況になった時...そして人々の為に言論の自由と法の下での平等という正義の必要性を絶えず強調する時、それはほとんどすべての人々に対する地獄を止めます...貴方達が攻撃されている時は、私は其処に居ます。あなたがしようとしていることは、システム全体がどうあるべきかということなのですから!」 ブラウンはこの集会で、ジョーンズを貴重な人物と呼び、「彼は人々の事を気にかけています...ジム・ジョーンズ牧師は、全てが失われ、希望がほとんどなくなった時に、助けとなる人物です」とも述べている。 モスコーニは、彼自身の調査を開始する要求を拒否したが、ジョーンズがガイアナから戻ると思っていたにも関わらず、彼は教団に対する申し立てに深い不安を感じていた。しかし、1977年8月2日、ジョーンズは無線を通じて、ガイアナから帰国することを拒否した。 ミルクは未だに人民寺院信者達の間では人気があった。ジョーンズタウンでの惨劇の2か月前に、ミルクが恋人のジャック・リラを亡くした際には、信者から50通以上の同情の手紙が寄せられた。この手紙の内容は、定型的なものであり、その典型的な手紙の例として次のようなものがある。「貴方の喪失に心からお悔やみ申し上げます。短い訪問でもよいので(ジョーンズタウンで)私たちとご一緒頂けると嬉しいです」 教団信者のシャロン・エイモスは次の様に書いている。「サンフランシスコで貴方の事を知り、社会的な取り組みと地域社会への貢献について、とても素晴らしいと思いました」 彼女はまた、「いつかジョーンズタウンに、私たちを訪ねてきていただけることを願っています。信じられないかもしれませんが、ジャングルの中にありながら、非常に洗練されたコミュニティなのです」と書いていた。ミルクが最後に教団で講演したのは1978年10月であった。下院議員のライアンが、1978年の中間選挙(英語版)後にジョーンズタウンの調査を行うと発表したにもかかわらず、この時点でブラウンは同年12月2日に教団の資金調達を目的とした夕食会を計画していた。
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