政治的思想・見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 10:44 UTC 版)
戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、平和主義者として、護憲派の立場から、日本国憲法第9条についてエッセイや講演で積極的に言及している。核兵器についても反対の立場を明確にしている。 1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引用している。 同1994年、ノーベル賞の受賞を受けて天皇からの親授式を伴う文化勲章の授与が内定し、文化庁から電話で打診されたときにはそれを断っている。米紙ニューヨークタイムズのインタビューで「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(注:天皇制)を認めないからだ。これは単純なことだが非常に重要なことだ」と話した。 1995年、フランスの南太平洋における核実験再開に抗議して、南仏で開催される予定だったシンポジウムへの出席を取りやめた。このことでフランスのノーベル賞作家クロード・シモンとの間で論争が生じた。 1999年、朝日新聞に掲載されたアメリカの批評家スーザン・ソンタグとの公開書簡において、NATOによるユーゴ空爆を批判し、意見が対立した。 2003年の自衛隊イラク派遣の際は仏紙リベラシオン掲載記事において「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した。 2004年には、憲法9条の平和主義の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らと共に九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。 歴史認識について、1990年代以降表面化してきた歴史修正主義を伴う右派運動・言論について繰り返し反対を表明している。2001年には、「新しい歴史教科書をつくる会」編集・扶桑社版の植民地支配と侵略を肯定する中学校の歴史教科書の検定申請がされたことを受けて鵜飼哲、高橋哲哉、小森陽一、井上ひさしら学者・文化人17人の連名で「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」と題する声明を発表している。 大江は1970年に『沖縄ノート』を上梓している。第二次世界大戦末期の地上戦において、戦後も朝鮮戦争・ベトナム戦争の基地として戦争に巻き込まれ、本土から捨て石とされ続けていた日本返還前の沖縄をめぐるルポルタージュである。この書において沖縄戦において生じた民間人の集団自決は軍に強いられたものであるとした。これについて、2005年、歴史の見直しを主張する右派に担ぎだされて、旧軍指揮官と遺族が大江を提訴したが、裁判では「集団自決に日本軍が深く関わった」(地裁)「軍が深く関わったことは否定できず、総体としての軍の強制、命令と評価する見解もあり得る」(高裁)と判断されて、指揮官・遺族は敗訴した。 詳細は「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」を参照 原子力発電について、1960年代に行われた講演において、核エネルギーの開発が核兵器の開発や保持と結びつくことに懸念や警戒を示したうえで、両者が切り離されているならば核エネルギーの開発に「反対はしない」と述べていたが 、1970年代後半以降は反対する立場をとっている。2011年、東日本大震災による福島第一原子力発電所事故を契機に立ち上がった脱原発の社会運動「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人の一人となっている(他の呼びかけ人は内橋克人、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔)。 東アジア外交については、2006年には中国社会科学院の招きで訪中して複数の場所で講演を行い、南京大虐殺紀念館などにも訪れた。講演ではいずれも魯迅をテーマとしたが、その中で日中友好に触れて日本における戦争加害の歴史の忘却を憂えた。2012年には「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題する声明を元長崎市長の本島等、元『世界』編集長の岡本厚ら1300人と共同で発表。韓国、中国との領土問題について対立を感情的にエスカレートさせずに冷静に協議、対話をしていく必要があることを訴えた。
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