プティクーディアクの戦いとは? わかりやすく解説

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プティクーディアクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/27 06:43 UTC 版)

プティクーディアクの戦い
フレンチ・インディアン戦争

イギリス軍によるアカディア人への立ち退き命令
1755年9月4日
場所 アカディアのヴィヤージュ・デ・ブランシャール(現ニューブランズウィック州ヒルズボロ近く)
北緯45度55分56秒 西経65度10分29秒 / 北緯45.93222度 西経65.17472度 / 45.93222; -65.17472座標: 北緯45度55分56秒 西経65度10分29秒 / 北緯45.93222度 西経65.17472度 / 45.93222; -65.17472
現況 フランス、アカディア、先住民連合の勝利
衝突した勢力
グレートブリテン王国 アカディア民兵
ミクマク族
指揮官
ジョセフ・フライ
シルヴァナス・コッブ
シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト
戦力
200 120
被害者数
戦死22
負傷数人
戦死1
負傷6
ヴィヤージュ・デ・ブランシャール
アカディア(ニューブランズウィック)

プティクーディアクの戦い(仏 Bataille de Petitcoudiac、英 Battle of Petitcodiac)は、フレンチ・インディアン戦争の戦闘である。イギリス植民地軍と、フランス士官シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェトに率いられたアカディア反乱軍とが、1755年9月4日に、プティコディアック川(プティクーディアク川)に面したヴィヤージュ・デ・ブランシャール(現在のカナダニューブランズウィック州ヒルズボロ)で交戦した。

概要

ボーセジュール攻略後

シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト

1755年6月16日ボーセジュール砦の攻略ののち、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスの命令のもと、イギリス軍はアカディア人の追放作戦に出た。指揮官の大佐ロバート・モンクトンは、多くのアカディア人の村や、民兵に奇襲をかけた。一方で、アカディア側の指揮官ボワシェベールは、攻略後姿をくらましていた。モンクトンは、ボワシェベールが、ニューブランズウィックのどこかにいることは気づいていた。ボーセジュールの攻略で、指揮官のルイ・デュ・ポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴが降伏したものの、この攻略でニューブランズウィックすべてが降伏したわけではなく、イギリス軍を撃退する機会はいくらでもあった[1]

攻略の後、モンクトンは、セントジョン川の河口のポワント・サンタンヌ(現フレデリクトン[1]を守っていたボワシェベールを立ち退かせるため艦隊を送った。守りきれないと悟ったボワシェベールは砦を壊した。[2]イギリス軍が、プティクーディアク川への遠征を計画しているという情報を受け取ったボワシェベールは、シプディ(現シェポディ)に急いだ[3]。フランス本国からも、ルイブールからも、そしてケベックからも、今後のアカディアに関して命令らしきものは来なかったが、ボワシェベールは、対イギリス同盟のため、個人的な人脈も活用して先住民とも接触を図り[1]120人のアカディア人、先住民マリシートとミクマクとともにゲリラ軍を結成した。反乱軍のリーダーとなったボワシェベールは、ミラミシ川の河谷を拠点に、アカディア人をイギリス軍からのがれさせ、ケベックに送るための手助けをした。[3]

ファンディ湾方面作戦が行われていた8月28日、モンクトンは少佐のジョセフ・フライと200人の民兵の遠征軍を、かつてはボーセジュール砦だったカンバーランド砦から、2隻の武装したスループに乗せ、プティクーディアク川に面したアカディア人の入植地を根絶やしにするよう命令を出した[2]。シプディの建物に火を放った後、遠征軍は川を前進し、集落に火をつけ、道すがら村人を捕虜として拘留した[2]

戦闘

9月2日、遠征軍がヴィヤージュ・デ・ブランシャールの内外に火を放ち、集落地根絶の作戦を開始した。本隊はプティコディアック川の東岸にいて、50人から60人ほどの、ジョン・インディコット率いる分遣隊が西岸にいた。[4] 彼らが教会に火を付けた時、ボワシェベールと80人の兵[5]とあるため、が攻撃を仕掛けた[2]。イギリス軍は堤防の陰に引き揚げ、フライが残った兵と上陸して指揮を執った時は、かなり動転していた。3時間に及ぶ激戦の後、フライは結局兵たちをせきたててボートに乗せ、退却した。イギリス軍の戦死者は22人、負傷者は6人だった。[6]

難民キャンプ

ボーベアール島

イギリスにとっては手痛い敗戦だった。フランソワ・ル・グェルヌ修道院長[7]によれば、この戦いは「ボーセジュールのすべての大砲よりもイギリス軍を震え上がらせた」[8]反乱軍の多くにとっては、初めての戦闘体験であった[9]

この戦いはアカディア人にとって初めて見えた希望だった、ボワシェベールはアカディア人家族30人を救出し、農作物と備蓄食糧とが賄えるほどの畑もいくつか確保した[10]。ラフェトは「カン・ド・レスペランス」(Camp de l’Espérance、「希望のキャンプ」)として知られる、アカディア難民のキャンプをボワシェベール島(現ニューブランズウィック州ミラミシのボーベアーズ島)に作った。シャルール湾とレスティグーシュ川にもキャンプがあり、そこには、アカディア人たちはどうにか自分たちでたどり着いた[11]。レスティグーシュ川の難民キャンプは、プティ・ロシェル(現ケベック州ポワント=ア=ラ=クロワ)にあった。ここは、今のニューブランズウィック州キャンベルトンの近くである。[12]

脚注

  1. ^ a b c The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu.
  2. ^ a b c d Faragher, p. 350
  3. ^ a b Faragher, p. 350; Grenier, p.180
  4. ^ Grenier, p. 180. 注:歴史家のグルニエは、戦場はプティコディアクではなく、むしろシプディであったとしている。一方で、一次資料として、ジェレディア・プレブル少佐の手紙に、戦いは「シポディア」で行われた旨のことが書かれている。 (参照:Peter Landry. The Lion and the Lily. Trafford Press. 2007. p. 535)
  5. ^ 英語版では300人の兵と記されているが、他国語版のInfoboxの人数から判断する限り不自然であるため、前出のこの資料に準じた。
    The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu.
  6. ^ Grenier, p. 180. フランス軍によれば、イギリス軍戦死者は80人となっている。 (参照 Grenier, p. 180).
  7. ^ Histoire de Acadiens et de l'Acadie - François Le Guerne, l'abée
  8. ^ Faragher, p. 351
  9. ^ Grenier, p. 180
  10. ^ Grenier, p. 181
  11. ^ Lockerby, 2008, p.17, p.24, p.26, p.56
  12. ^ Faragher, p. 414; 参照: History: Commodore Byron's Conquest. The Canadian Press. July 19, 2008 http://www.acadian.org/La%20Petite-Rochelle.html

参考文献

関連項目


プティクーディアクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 05:17 UTC 版)

シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事における「プティクーディアクの戦い」の解説

ボーセジュール砦の戦いからほどなくして、ボワシェベールは、イギリス軍によるシプディ(英語版)(現シェポディ(英語版))、プティクーディアク(英語版)(現ヒルズボロ英語版)の近く)、そしてメムラムクック(英語版)の諸集落襲撃計画知り、すぐにシプディに向かったが、時遅く、このへの襲撃阻止できなかった。しかし、1755年9月3日、ボワシェベールはイギリス軍立ち向かい3時間に及ぶ激闘の末敵軍完勝し(この時のイギリス軍被害50戦死60負傷)、イギリス軍敗走した。ボワシェベール率いフランス軍損害戦死わずか1名で、最も困窮していた30家族連れてセントジョン川に戻ったまた、シェディアク(英語版)とコカーニュ(英語版)の間の地域に、追放から逃れてきた200もの家族新たに定住することができた。 1756年1月20日、ボワシェベールはフランソワ・ブーシェ・ド・ニヴェルヴィユ(Francois Boucher de Niverville)をヴェルト湾(英語版)に派遣しイギリススクーナー船放火させた。ニヴェルヴィユは水兵たちの不意を襲って、7人を殺し1人捕囚として船を燃やした。同じころ、ボワシェベール自身120人の兵と共にカンバーランド砦(旧ボーセジュール砦)を攻撃した。同じ年の5月にはルーネンバーグ奇襲行ったまた、10月12日には、モンクトン砦(旧ガスパロー砦(英語版))への遠征着手したが、到着前に敵軍が兵を撤退させ、砦を燃やした1758年7月26日ルイブール陥落してからは、ポールトゥールーズ(現在のノバスコシア州セントピーターズ英語版))付近多くアカディア人を、ミラミシ(英語版)の駐屯隊のもとへ逃がした

※この「プティクーディアクの戦い」の解説は、「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の解説の一部です。
「プティクーディアクの戦い」を含む「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事については、「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の概要を参照ください。

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