ボーセジュール攻略後とは? わかりやすく解説

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ボーセジュール攻略後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/27 06:43 UTC 版)

プティクーディアクの戦い」の記事における「ボーセジュール攻略後」の解説

1755年6月16日、ボーセジュール砦の攻略ののち、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスの命令のもと、イギリス軍アカディア人追放作戦出た指揮官大佐ロバート・モンクトンは、多くアカディア人や、民兵奇襲をかけた。一方でアカディア側の指揮官ボワシェベールは、攻略後姿くらましていた。モンクトンは、ボワシェベールが、ニューブランズウィックのどこかにいることは気づいていた。ボーセジュールの攻略で、指揮官のルイ・デュ・ポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴが降伏したものの、この攻略ニューブランズウィックすべてが降伏したわけではなくイギリス軍撃退する機会いくらでもあった。 攻略の後、モンクトンは、セントジョン川の河口のポワント・サンタンヌ(現フレデリクトン)を守っていたボワシェベールを立ち退かせるため艦隊送った守りきれない悟ったボワシェベールは砦を壊したイギリス軍が、プティクーディアク川への遠征計画しているという情報受け取ったボワシェベールは、シプディ(現シェポディ)に急いだフランス本国からも、ルイブールからも、そしてケベックからも、今後アカディアに関して命令しきものは来なかったが、ボワシェベールは、対イギリス同盟のため、個人的な人脈活用して先住民とも接触図り120人のアカディア人先住民マリシートとミクマクとともにゲリラ軍を結成した反乱軍リーダーとなったボワシェベールは、ミラミシ川の河谷拠点に、アカディア人イギリス軍からのがれさせ、ケベックに送るための手助けをした。 ファンディ湾方面作戦が行われていた8月28日モンクトン少佐のジョセフ・フライと200人の民兵遠征軍を、かつてはボーセジュール砦だったカンバーランド砦から、2隻の武装したスループ乗せ、プティクーディアク川に面したアカディア人入植地根絶やしにするよう命令出した。シプディの建物火を放った後、遠征軍は川を前進し集落に火をつけ、道すがら村人捕虜として拘留した

※この「ボーセジュール攻略後」の解説は、「プティクーディアクの戦い」の解説の一部です。
「ボーセジュール攻略後」を含む「プティクーディアクの戦い」の記事については、「プティクーディアクの戦い」の概要を参照ください。

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