ボーセジュール攻略後
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「プティクーディアクの戦い」の記事における「ボーセジュール攻略後」の解説
1755年6月16日、ボーセジュール砦の攻略ののち、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスの命令のもと、イギリス軍はアカディア人の追放作戦に出た。指揮官の大佐ロバート・モンクトンは、多くのアカディア人の村や、民兵に奇襲をかけた。一方で、アカディア側の指揮官ボワシェベールは、攻略後姿をくらましていた。モンクトンは、ボワシェベールが、ニューブランズウィックのどこかにいることは気づいていた。ボーセジュールの攻略で、指揮官のルイ・デュ・ポン・デュシャンボン・ド・ヴェルゴが降伏したものの、この攻略でニューブランズウィックすべてが降伏したわけではなく、イギリス軍を撃退する機会はいくらでもあった。 攻略の後、モンクトンは、セントジョン川の河口のポワント・サンタンヌ(現フレデリクトン)を守っていたボワシェベールを立ち退かせるため艦隊を送った。守りきれないと悟ったボワシェベールは砦を壊した。イギリス軍が、プティクーディアク川への遠征を計画しているという情報を受け取ったボワシェベールは、シプディ(現シェポディ)に急いだ。フランス本国からも、ルイブールからも、そしてケベックからも、今後のアカディアに関して命令らしきものは来なかったが、ボワシェベールは、対イギリス同盟のため、個人的な人脈も活用して先住民とも接触を図り120人のアカディア人、先住民マリシートとミクマクとともにゲリラ軍を結成した。反乱軍のリーダーとなったボワシェベールは、ミラミシ川の河谷を拠点に、アカディア人をイギリス軍からのがれさせ、ケベックに送るための手助けをした。 ファンディ湾方面作戦が行われていた8月28日、モンクトンは少佐のジョセフ・フライと200人の民兵の遠征軍を、かつてはボーセジュール砦だったカンバーランド砦から、2隻の武装したスループに乗せ、プティクーディアク川に面したアカディア人の入植地を根絶やしにするよう命令を出した。シプディの建物に火を放った後、遠征軍は川を前進し、集落に火をつけ、道すがら村人を捕虜として拘留した。
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