チェサピーク方面作戦と「星条旗」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:35 UTC 版)
「米英戦争の大西洋戦線」の記事における「チェサピーク方面作戦と「星条旗」」の解説
チェサピーク湾はアメリカ合衆国の首都にも近く戦略的な位置にあったので、イギリス軍の主要な目標となった。1813年の3月からジョージ・コックバーン少将指揮の艦隊が湾を封鎖し、湾岸に沿ったノーフォークからハーブ・ド・グレイスに至る町々を砲撃した。 7月4日、独立戦争の海軍の英雄ジョシュア・バーニーが海軍当局を説得して、湾を守るために、20隻のはしけからなる「チェサピーク湾船隊」を作ることになった。この部隊は1814年4月に進水し、直ちにパタクセント川で活動を始め、イギリス海軍の妨害に効果を上げたものの、「ワシントン焼き討ち」に至るイギリスの作戦を阻止する程の力はなかった。 イギリス海軍のコックバーン少将と陸軍のロバート・ロス将軍に率いられた遠征隊の攻撃は1814年8月19日から29日にかけて行われた。この年の6月からガンで休戦交渉が始まっていたが、この作戦はイギリス側が方針を硬化させたことの結果であった。この作戦の過程で、アメリカ派遣艦隊の司令官がウォーレン提督からアレクサンダー・コクラン提督に替わった。彼は増援部隊を引き連れており、それにより自国に有利な講和にアメリカを追い込むよう指示を受けていた。 カナダのサー・ジョージ・プレボスト総督はバミューダにいる提督に手紙を送り、アメリカ軍が行ったヨーク(現在のトロント)の焼き討ちに対する報復を求めた。まさにその頃、戦列艦「ロイヤル・オーク」、3隻のフリゲート、3隻のスループおよびその他10隻の艦船からなるイギリス艦隊に乗船したロス将軍指揮の2,500名の部隊がバミューダに到着した。 半島戦争で勝利を収めた彼らは、そこから解放された後、メリーランドやバージニアの海岸で陽動攻撃を行うことになっていたが、プレボストの要請に応え、既にチェサピーク湾にいる海軍や陸軍の部隊と協同してワシントンD.C.を襲撃することになった。 8月24日、陸軍長官ジョン・アームストロングは、イギリス軍が明らかに首都へ向かっているにもかかわらず、ワシントンではなくボルティモアを攻撃するだろうと主張した。首都を守るためにメリーランド州ブラーデンスバーグに集結したアメリカ民兵は経験に乏しく、ブラーデンスバーグの戦いで壊滅し、ワシントンへの道を明けてしまった。ドリー・マディソンがホワイトハウスの貴重品を退避させ、ジェームズ・マディソン大統領はバージニアへ逃亡した。 イギリス軍の指揮官達は大統領のために用意された夕食を平らげたあと、大統領官邸に火を掛けた。アメリカ側の士気はかつてないほど低下した。イギリスはこの行動をアメリカがカナダで行った破壊活動に対する報復と見ていた。その夜遅く、竜巻を伴う激しい嵐がワシントンD.C.を襲い、市内に大きな被害をもたらしたが、車軸を流すような雨で焼き討ちの火災は鎮火した。海軍施設は、艦船や物資の捕獲を防ぐため、当局の指示で焼かれた。イギリス軍は嵐が止むと直ちに首都を離れた。 大統領官邸や財務省など首都の公共建物を破壊した後、イギリス陸軍は次にボルティモアの占領に向かった。ボルティモアはアメリカの私掠船の重要基地となる繁栄した港であった。ボルティモアの戦いはイギリス軍のノースポイント上陸で始まったが、ロス将軍はアメリカの前哨基地において戦死した(ノースポイントの戦い)。イギリス軍は9月13日に、海からボルティモアを攻撃したが、ボルティモア港の入り口にあるマクヘンリー砦を落すことができなかった。 フォートマクヘンリーの戦いは、戦いと呼べるものではなかった。イギリスの艦砲はアメリカの大砲より射程が長かったので、砦の砲の射程外から攻撃し、それに対して砦は反撃することができなかった。イギリス軍は陸軍と協同作戦を計画していたが、距離が離れすぎていて連携できず、結局攻撃を諦めて撤退した。 夜間の攻撃の間ボルティモアの灯りはすべて消されていた。艦砲射撃は25時間続いた。マクヘンリー砦に着弾する炸裂弾の光だけが唯一の灯りだったが、その光の中、国旗が砦の上に翻りつづけるのが見えた。この砦の守りに感激したアメリカの弁護士フランシス・スコット・キーが詩を作り、それが後にアメリカ合衆国の国歌「星条旗」(The Star-Spangled Banner)の歌詞に採用された。
※この「チェサピーク方面作戦と「星条旗」」の解説は、「米英戦争の大西洋戦線」の解説の一部です。
「チェサピーク方面作戦と「星条旗」」を含む「米英戦争の大西洋戦線」の記事については、「米英戦争の大西洋戦線」の概要を参照ください。
- チェサピーク方面作戦と「星条旗」のページへのリンク