チェサピーク湾からパムリコ・サウンドまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 08:50 UTC 版)
「ロアノーク島の戦い」の記事における「チェサピーク湾からパムリコ・サウンドまで」の解説
北軍兵の多くにとってハッテラス入江までの船旅はこの戦闘の中でも最悪の時だった。ハッテラス岬付近での気象はその評判に違わず荒れており、兵士の多くが船酔いになった。バーンサイドは虚勢を張って、輸送船ジョージ・ピーボディの快適な船室を離れ、その参謀達と共に陸軍の砲艦ピケットの上に移った。バーンサイドはこの船が戦隊の中で最も海洋航行性が無いと見ていたのでこの艦船を選び、部隊兵に彼が進んでその惨めさを分け合うところを見せて、その忠誠を買った。嵐が襲ったときにバーンサイドは移動したその浅知恵を疑い始めたがピケットは生き残り、目的地まで無事に運んだ。艦隊の中で3隻、大砲や物資を積んだシティ・オブ・ニューヨーク、馬を運んだポカホンタスおよび陸軍の砲艦ズアーブは不運にも遭難したが、乗っていた人員は救助された。第9ニュージャージー連隊の2人の士官が旗艦を訪れた後で乗っていたサーフボートが転覆し溺れたのが唯一の人的損失だった。 ハッテラス入江を抜けてパムリコ・サウンドに入る時に時間を浪費した。水深は8フィート (2.4 m) と考えられていたが、実際には6フィート (1.8 m) しか無い難しい水路だと分かった。陸軍の艦船の幾つかはすれすれになったために通れず、軽くした後で小錨の索を引っ張って移動させねばならなかった。その他の艦船は喫水が深く小錨の索を引っ張っても無理だった。艦船に載せた人や物資はハッテラス島に運んでから艦船は戻った。バークのジョン・トラックスは全く何もできなかった。乗っていた人員を降ろすためにハッテラス島に近付くことすらできなかった。ジョン・トラックスは第53ニューヨーク連隊全員を乗せたままアナポリスに引き返し、その部隊は戦闘に参加できなかった。2月4日まで掛かって艦隊は通り抜けパムリコ・サウンドに集結した。 北部の戦隊が艱難辛苦しているあいだ、南軍は奇妙にも活動していなかった。島には援軍が送られず、ついでに言えばその地域の他の目標となりそうな所も同じだった。島の歩兵の数は約1,400名のままでありナグズヘッドに予備隊800名が居た。大きな変化といえば否定的なものだった。2月1日、ワイズ将軍が「胸膜炎、高熱と吐血、肺炎の怖れ」というもので倒れた。ナグズヘッドの病床に拘束され、戦いの終わった2月8日まで入院したままだった。命令は発し続けていたが、ロアノーク島の実質的指揮権は第8ノースカロライナ歩兵連隊のH・M・ショー大佐に渡されていた。
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