イギリスの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
イギリスの戦術はアウクスブルク同盟戦争以降、進化を遂げていた。港を砲撃して、ブルターニュ海岸を襲撃するだけでなく、イギリスの作戦は1694年のカマレの海戦(英語版)のような大規模な水陸両用作戦へとだんだんと移っていった。 1744年2月、リチャード・レストック(英語版)中将はトゥーロンの海戦での敗北により軍法会議にかけられたが、彼は後にブルターニュにおける軍事行動のためにイギリス艦隊の指揮官に任命された。彼は戦列艦16隻、フリゲート8隻と輸送船43隻を率いた。遠征軍の出発直前、歴史家で哲学者のデイヴィッド・ヒュームがシンクレアの秘書に任命された。シンクレアの軍勢は王立連隊(英語版)の第1大隊、ハイランダー連隊(英語版)の第5大隊、ブラッグの連隊(英語版)の第3大隊、ハリソンの連隊(Harrisson)の第2大隊、リッチベルの連隊(Richbell)の第4大隊、フランプトンの連隊(Framption)の大隊の一部、海兵隊数個中隊で合計4,500人だった。 しかし、遠征隊の指揮官たちはブルターニュが襲撃の標的として最適であったかは疑問視しており、彼らはノルマンディーのほうがいいと考えた。ブルターニュはイギリスにはよく知られておらず、シンクレアはブルターニュの地図を取得できずフランス全体の地図で代用しなければならず、レストックもロリアンの守備について全く知らなかった。さらに上陸軍は軍馬を得られなかった。遠征艦隊は9月26日にプリマスを離れ、フランスからの妨害もなくウェサン島を通過した。
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