イギリス軍の上陸
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「ラムリー島の戦い」の記事における「イギリス軍の上陸」の解説
「マタドール作戦 (1945年)」も参照 イギリス軍は大型の輸送艦・揚陸艦はチッタゴン、軽巡洋艦フィービや駆逐艦、小型舟艇はアキャブで船団を組み、ラムリー島へ向けて出航した。 1月21日朝、戦艦クイーン・エリザベスなどの艦砲射撃と、B-24爆撃機やP-47戦闘機の空襲で連合軍の攻撃は開始された。第一陣として第26インド師団の第71インド旅団がラムリー島北端のチャウッピュー(キャクピュ, en)に上陸し、橋頭堡を確保した。初日のうちに兵員7,000人と車両121両、物資70トンが揚陸された。水際での日本軍の抵抗はほとんど無く、損害は上陸用舟艇とモーターランチ各1隻が機雷で沈没した程度だった。航空部隊も事故で2機を失っただけで済んだ。翌日には第4インド旅団が西岸から上陸した。26日にはチェドバ島にもイギリス海兵隊などが上陸し、無血占領した(詳細はサンキー作戦を参照)。 日本の長澤連隊長は、イギリス軍の上陸時にたまたまラムリー島を部隊検閲に訪れており、侵攻を知るとすぐに部隊に戦闘態勢を取らせた。日本軍は、島の中央部を東西に走るヤンボーク・クリーク南側に陣地を構築済みで、そこに主力を配置して防戦した。25日に長澤連隊長は師団命令に従ってタンガップに大発動艇で後退したため、以後の指揮は歩兵第121連隊第2大隊長の猪股力少佐が引き継いだ。 日本の第5飛行師団は、1月21日、飛行第64戦隊の一式戦闘機8機と飛行第8戦隊の軽爆撃機3機を出撃させ、ラムリー島沖のイギリス艦隊を攻撃した。日本軍はイギリス艦船2隻を沈めたと報じ、被害は1機損傷であった。
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イギリス軍の上陸
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7月6日の朝、イギリス陸軍は、ジョージ湖の北岸に上陸を始めた。フランス軍の反撃はなく、アバークロンビーは最初に下りて、先発部隊に兵たちが上陸すべき一帯を調べさせ、最近、敵軍が持ち場を離れたことを知った。早急に退却したため、フランス軍の物資や兵器が置き去りにされていた。軍の大半が上陸し、縦隊に整列して、ベルニッツ川の西側の、ジョージ湖とシャンプラン湖がつながる地点を目指した。連水経路よりもそちらを選んだのは、橋がフランス軍に破壊されていたからだった。しかし、森の中がかなり入り組んでいるため、行軍は混乱し始めた。 ベルニッツ川がラ・シュート川と合流する場所の近くで、フランスの陣地へ戻ろうとしていたトレペゼと部隊が、フィネアス・ライマン率いるコネチカット連隊と出くわし、森の中で小競り合いが起きた。その近くにハウの隊もいたため、ハウは隊をそちらに連れて行った。彼らが小競り合いの場に近づいたところで、将軍ハウに砲弾が命中し、彼は即死した。また、マサチューセッツ湾植民地の兵もこの場に連れて来られ、フランスの哨兵の背中を切りつけた。捨て鉢な戦いで、トレペゼの兵約150人が死に、他の150人が捕虜となり、彼らを含む50人が、ラ・シュート川を泳いで逃れた。この時の傷がもとで、トレペゼは翌日死んだ。 イギリスの戦死傷者は少なく、戦死10人、負傷者6人だったが、通り抜けるのが困難な森にいら立ち、ハウの死に士気を落とし、そして夜を徹しての航行に疲れ、森の中で野営をした後、翌朝上陸地点に戻った。
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