イギリス軍によるバージニア襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:52 UTC 版)
「ヨークタウン方面作戦」の記事における「イギリス軍によるバージニア襲撃」の解説
アーノルド将軍とその部隊を運んだ艦隊の一部は12月30日にチェサピーク湾に到着した。アーノルドは残り部隊の到着を待たず、ジェームズ川を遡って、1月4日にはウェストオーバーで900名の兵士を上陸させた。アーノルドはその部隊に夜通しの行軍をさせ、翌日バージニアの首都であるリッチモンドを襲撃したが、そこでは民兵の最小の抵抗に遭っただけだった。その地域でさらに2日間襲撃を続けた後に船に戻り、ポーツマスに向けて出帆した。アーノルドはそこに要塞を築き、部隊を送り出して襲撃と食料調達を行わせた。地元では民兵が招集されたが、勢力が整わなかったのでイギリス軍には対抗できなかった。襲撃隊が抵抗勢力と衝突することもあり、1781年3月にはウォーターズ・クリークでの小戦闘が発生した。 アーノルドが活動しているという報せがジョージ・ワシントンのところに届くと、ワシントンは対応する必要があると判断した。ワシントンはフランス海軍がニューポートの基地から遠征隊を派遣してくれることを望んだが、その提督であるシュバリエ・デトーシュは、1月22日に起こった嵐でイギリス艦隊の一部に与えられた損傷に関する報告が届くまで援助ができないと言った。2月9日、アルノー・ド・ガルデュール・ド・ティリー海軍大佐がニューポートから3隻の艦船(戦列艦のエベイユ、フリゲート艦のサーベイラントとジャンティーユ)を率いて出帆した。この船隊が4日後にポーツマスに到着すると、アーノルドはフランス艦よりも喫水が浅かったその船舶をエリザベス川を遡って後退させた。そこまではフランス船隊が行くことができなかった。ド・ティリーはアーノルドの陣地を攻撃するには地元の民兵隊が「完全に不十分」と判断した後、ニューポートに戻った。その帰途でニューヨークのイギリス軍がド・ティリーの動きを探らせるために派遣していたフリゲート艦HMSロムルスを捕獲した。 大陸会議は2月20日に大陸軍の分遣隊をバージニアに派遣することを承認した。ワシントンはその遠征隊の指揮官にラファイエットを指名し、ラファイエットは同日にニューヨークのピークスキルを出発した。ラファイエットの部隊は約1,200名であり、ニュージャージーとニューイングランド出身の大陸軍連隊から引き抜かれた3個軽歩兵連隊で構成されていた。これら連隊のそれぞれをジョセフ・ボーズ、フランシス・バーバーおよびジャン=ジョゼフ・スールバデ・ド・ジマーが率いた。ラファイエット隊は3月3日にメリーランドのヘッド・オブ・エルク(現在のエルクトン、チェサピーク湾の航行可能な北限)に到着した。アナポリスで部隊を乗せる輸送船を待つ間、ラファイエットは南に移動し3月14日にヨークタウンに到着して情勢を吟味した。
※この「イギリス軍によるバージニア襲撃」の解説は、「ヨークタウン方面作戦」の解説の一部です。
「イギリス軍によるバージニア襲撃」を含む「ヨークタウン方面作戦」の記事については、「ヨークタウン方面作戦」の概要を参照ください。
- イギリス軍によるバージニア襲撃のページへのリンク