イギリス軍によるオーガスタ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:51 UTC 版)
「ブライアクリークの戦い」の記事における「イギリス軍によるオーガスタ占領」の解説
イギリス軍のオーガスティン・プレボスト准将が1月半ばにセントオーガスティンからサバンナに到着すると、そこの全軍の指揮を執り、キャンベルに部隊を付けて派遣し、オーガスタの占領とロイヤリスト民兵の徴募を目指させた。 キャンベルは1,000名以上の兵を率いて1月24日にサバンナを発ち、1週間後にはオーガスタに到着した。途中でジョージア民兵隊からの嫌がらせもほとんど無かった。オーガスタはサウスカロライナ植民地のアンドリュー・ウィリアムソン将軍がジョージアとサウスカロライナの民兵約1,000名を率いて守っていたが、キャンベル隊が近付くと部隊の大半を撤退させた。サバンナ川を渡りサウスカロライナに入る前にウィリアムソン隊の後衛がキャンベル隊と小競り合いを演じた。 その後キャンベルはロイヤリストの徴募を始めた。約1,100名の者が徴募リストに署名したが、実際に民兵中隊を結成できた数はかなり少なかった。続いてキャンベルは違背すれば資産を没収するという条件で忠誠の誓いを求めた。多くの者が心ならずも誓いを立てたので、直ぐにウィリアムソンはその真の感情を知ることとなった。キャンベルはオーガスタに居る間にインディアンからの支援も期待していたが、それは得られなかった。またノースカロライナ植民地とサウスカロライナの田園部でロイヤリストを徴募するために、ロイヤリストのジョン・ボイド大佐を派遣していたが、大規模な支援部隊を立ち上げられないのではないかと心配していた。ジョン・アッシュ将軍の率いるノースカロライナの愛国者民兵隊1,000名以上がウィリアムソンの宿営地に到着したことで、2月12日にキャンベルはオーガスタを放棄することに決めた。その2日後、ボイドの率いていた600ないし700名の民兵隊がケトルクリークの戦いで敗北したその日、キャンベルはオーガスタから撤退し、サバンナに戻る行軍を始めた。 キャンベルはオーガスタを発った後までケトルクリークの戦いの結果を知らなかった。オーガスタ占領の間に兵士1名が犠牲になっていたが、この損失の意味するところは正規兵の間に起きた怒りだった。第71歩兵連隊の兵士が民家の「見張り番」に宛てられていたが、ヨーロッパの戦線であればこの任務は通常割り振られないものだった。この死亡した兵士は愛国者ゲリラに殺されており、愛国者部隊の指揮官達はそのゲリラを罰しようとはしなかった。 キャンベルはエベネザーに到着するまで部隊を率い、その途中でブライア・クリークに架かる橋を焼いた。エベネザーでは部隊の指揮権をプレボスト准将の弟であるマーク・プレボスト中佐に渡し、自分はイングランドに戻るべく河を下った。愛国者部隊のアッシュ将軍はキャンペル隊の後を付けており、2月26日にはブライア・クリークとサバンナ川の合流点から北に約15マイル (24 km) の地点で宿営した。アッシュは部下の兵士に橋を修復するよう命じた。アッシュがそこで宿営している間に約200名の軽装騎兵と幾らかの軽装歩兵部隊が加わり、総勢は約1,300名に膨れあがった。
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