イギリス軍の1781年の作戦
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「ヨークタウン方面作戦」の記事における「イギリス軍の1781年の作戦」の解説
クリントン将軍は、来るべき1781年の作戦シーズンのためにその年の初期には何を目標とすべきか、明確なビジョンを打ち出すことはなかった。その問題の一部は同じニューヨークにいる海軍指揮官で老齢のマリオット・アーバスノット海軍中将との人間関係が難しいことだった。二人とも頑固であり、怒りっぽく、棘のある性格だった。衝突が繰り返されたためにその関係は最悪の状態だった。1780年秋、クリントンは自身あるいはアーバスノットのどちらかが本国に呼び戻されることを要請した。しかし、アーバスノット解任の命令が届いたのは1781年6月になってからだった。歴史家のジョージ・ビリアスに拠れば、その時点まで「二人は単独で行動できず、共同で行動しようともしなかった」と記している。アーバスノットはトマス・グレイブス卿と交代し、クリントンはグレイブスとは幾らかましな関係を築いた。 アメリカ合衆国南部におけるイギリス軍は、強固に要塞化したサバンナとチャールストンの港、およびジョージアとサウスカロライナの内陸部に築いた一連の前進基地で構成されていた。その前進基地の中で最強のものはパトリオット民兵の攻撃からも比較的安泰であり、パトリオット民兵はその地域内、小さな前進基地、さらに物資輸送隊や伝令を標的にする型通りの抵抗をするだけだった。それらの活動はトマス・サムターやフランシス・マリオン等民兵指揮官に率いられていた。バージニアのポーツマスは1780年10月にイギリス軍アレクサンダー・レスリー少将が指揮する部隊によって占領され、一番新しい前進基地だったが、南部の全体指揮を執るチャールズ・コーンウォリス中将は11月にその部隊にサウスカロライナに来るよう命令を出していた.。12月下旬ポーツマスにいるレスリー将軍の跡を埋めるために、クリントンはアーノルド将軍に1,600名を付けてバージニアに派遣した。ベネディクト・アーノルドは1780年秋にアメリからイギリス軍に寝返った後、准将の任官を受けたばかりだった。
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