イギリス軍とドイツ軍の参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:15 UTC 版)
「ギリシャ・イタリア戦争」の記事における「イギリス軍とドイツ軍の参戦」の解説
戦争を楽観視していたムッソリーニはここで考えを改め、司令官の罷免と軍の増派を決定する。かくして、ギリシャ軍とその地形を過小評価していたヴィスコンティ・プラスカ将軍は罷免され、新たにウバルド・ソッドゥ将軍が指揮官に着任した。戦力面では、本国から6個師団の投入が決定するものの戦局は好転せず、ギリシャ軍にアルバニアへの逆侵攻を許す有様だった。ギリシャ戦争の泥沼化の責任を取ってピエトロ・バドリオ元帥が罷免される。代わってウーゴ・カヴァッレーロ将軍が参謀総長に就任した後も戦争継続の意志は変わらず、国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた。 一方その頃、同じバルカン半島の国であるブルガリアとユーゴスラビアが枢軸側に立って参戦、ドイツ軍がブルガリアへの進駐を開始していたが、枢軸側参戦から数日後にユーゴスラビアで親英派のドゥシャン・シモヴィッチ(en:Dušan Simović)将軍によるクーデターが決行され、同国は連合国側に寝返ってしまった。アドルフ・ヒトラーは不安定化したユーゴスラビアへの介入を決断、対ソ戦を延期してユーゴスラビアへ南下する。ムッソリーニはヒトラーの要請に応じて軍部隊をユーゴスラビアへ派遣(これらの伊軍部隊はその後二次大戦終戦までチトーのパルチザン討伐に明け暮れる事になる)し、またドイツ軍もギリシャ戦線へ3個軍団を援軍として投入、既に本土から新たに数個師団の増援を得ていたイタリア軍はドイツ軍と共に攻勢に転じ、挟撃されたギリシャ軍は総崩れとなった。4月23日、ギリシャ政府はイタリア政府に降伏を申し入れ、これをイタリア側が受領した事で戦争は終結した。 詳細は「ギリシャの戦い」を参照 当初はギリシャ軍を侮って7個師団での戦争を開始したイタリア王国軍であったが、最終的には28個師団を投入する結果になった。
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