枢軸国による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
詳細は「第二次世界大戦時のギリシャ」を参照 第二次世界大戦において分割されたギリシャはその占領にかかる経費を枢軸国らに請求されたことにより、財政が破綻、極度のインフレ状態に陥った。1941年から42年にかけての冬には大飢饉が発生した上、ホロコーストも行われ、テッサロニキでは伝統あるユダヤ人コミュニティが壊滅した。このような状況の中、ギリシャ人たちは抵抗組織を形成し始め、各地で抵抗運動が開始された。その中には右派である「国民民主連盟」(EDES)、「国民社会解放運動」(EKKA) や左派である「民族解放戦線」(EAM)、その武装勢力「民族人民解放軍」(ELAS) らなどが主な組織として組織化された。イギリスはギリシャが独立して以来、ギリシャの保護者を自任していたが、カイロへ亡命していた国王らを中心とした亡命政府の支援を行いながらも左派であるEAMを利用して作戦の遂行を考えていた。特にEAMはギリシャ共産党が主導で設立されていたため、イギリスはEAMの勢力拡大を阻止しなければならなかった。 EAMはこの動きを察知したため、戦後のギリシャを牛耳るための活動を開始、EDESへの攻撃を行ったが、これはドイツ軍が攻撃を行ったことと、イギリスの仲介により断念された。このできごとはギリシャ国内に暗い影を落とすこととなった。1944年9月以降、イギリス軍の上陸とナチス・ドイツの敗色が濃くなっていたが、ELASは蜂起してドイツ軍を窮地に追いやったため、ドイツ軍はギリシャより撤退、ギリシャは解放された。しかし、共産主義者の台頭を望まないイギリスは戦前の君主制支持者を中心とした軍の編成に着手したため、EAM支持者らが1944年12月3日、アテネで抗議集会を開催したが、流血の事態に発展、さらに翌日、ELAS主導でのゼネストが宣言されたため、アテネ駐在のイギリス軍とELASの間で専横が発展した。この時、イギリス軍はアテネの確保に成功したが、この十二月事件(ギリシア語版)を契機にギリシャは内戦へ突入することになる。
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