枢軸参加交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:06 UTC 版)
「第二次世界大戦下のスペイン」の記事における「枢軸参加交渉」の解説
ドイツによるポーランド侵攻は、ポーランドと同じくカトリックであり、反ソであったスペインに衝撃を与えた。スペインは中立を宣言し、ソ連の東ポーランド占領は「ヨーロッパのアジア化」であると非難した。ソ連の西方進出を防ぐためとしてドイツと連合国に講和を呼びかけたが容れられなかった。 しかし1940年6月のフランスの敗北は、スペインに枢軸寄りの政策をとらせることとなった。6月10日にスペインはベニート・ムッソリーニの勧めによって中立を放棄し、非交戦を宣言、事実上の準枢軸国となった。6月12日には国際管理都市タンジェに侵攻し、スペイン領モロッコに併合した。当時イギリスの敗北は間近と見られており、スペインは対英戦の準備を開始し、「最後の一週間」に参戦して戦果を勝ち取るつもりであった。 当初ヒトラーはこのようなフランコに対して冷淡であったが、バトル・オブ・ブリテンでの敗北が明らかになると、ドイツ軍部やヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相の構想に従い、地中海および北アフリカ、大西洋ににらみを利かせるジブラルタル攻略のためにスペインを枢軸国陣営に引き込むことを考え始めた。当時のドイツの構想ではソ連も同盟に引き込まれる前提があり、イギリスの植民地であった中東各地やインドでの反英行動が督励されていたため、スペインとは既存の同盟ではなく、個別の同盟を締結することとなった。 9月からは内相でフランコの義弟ラモン・セラーノ・スニェール(英語版)がベルリンを訪れ、同盟締結のための交渉を開始した。スペインは経済的・軍事支援に加え、ジブラルタルとフランス領モロッコ・アルジェリアと西アフリカにおけるフランス植民地の一部の割譲を要求した。しかしフランス植民地は親独のヴィシー政権の支配下にあり、軍事的に弱体なスペインに渡すよりはヴィシー政権のほうが頼りになると見られていた。 またスペインの要求する穀物・燃料支援は行われることがなかった上、スペイン領モロッコとカナリア諸島の軍事拠点をドイツに割譲する案はスペインの反発を招いた。10月にドイツ参謀本部はスペインを通ってジブラルタルを攻撃するフェリックス作戦を立案し、イタリアは日独伊三国同盟へのスペイン加入を提案した。ヒトラーはイタリアの提案を了承し、フランコと交渉して受け入れさせるつもりであった。 10月23日、フランス・スペイン国境のアンダイエでヒトラーとフランコの会談が行われた(アンダイエ会談(英語版))。ヒトラーはスペインの要求するフランス植民地割譲に応じられないとする一方で、戦後に入手するイギリス植民地によって調整が可能であるとフランコを説いた。フランコはこの約束をあてにならないと考えたが、最終的には独伊鋼鉄同盟への加入を秘密議定書で宣言し、戦争準備に必要な支援を受けることを条件として、将来における戦争参加と三国同盟への加入を確約した。バルカン戦線や北アフリカ戦線が危機に陥っていたドイツ・イタリアはジブラルタル攻撃を要求し、ドイツ国防軍を1941年1月10日に進駐させると通告したが、スペインが動くことはなく、12月には近い将来に参戦することはないと言明した。年が明けた1941年2月にフランコはヒトラーに書簡を送り、アンダイエ会談の議定書は効力を失ったものと見なすと通告した。その後北アフリカやバルカンで枢軸側は快勝したが、スペインは曖昧な言動で参戦や同盟参加を回避した。 以後、独ソ間の開戦、そして日英米間の開戦とそれに伴う独伊の対米開戦が行われた後のドイツは、大戦末期までスペインに参戦を要求し続けたが、スペインは実行不可能な条件を出して参戦を拒み続けた。
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