枢軸国の反応
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「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「枢軸国の反応」の解説
詳細は「対パルチザン攻勢」を参照 パルティザンは枢軸国とその傀儡勢力(クロアチア独立国、セルビア救国政府、チェトニクなど)に対してゲリラ戦を展開し、戦果を収めてきた。パルティザンは次第に大きな戦果を上げるようになり、より多くの人々の支持を集め、ユーゴスラビアの広大な一角を実効支配するようになった。パルティザンにより解放された地域には人民委員会が設置され、地域の自治にあたった。一部の地域では独自の軍需産業が興された。 しかし極初期にはパルティザンは小さな組織であり、装備も貧弱で、いかなる設備も持ちあわせてはいなかった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織とくらべて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザンは民族に基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアのすべての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。 チェコ人やスロバキア人、トルコ人を除く多くの少数民族が占領軍に協力した。 枢軸国はパルティザンの脅威を明確に意識していた。ドイツ国防軍の4つの歩兵師団を除くと、この地域出身で占領任務にあたった最大の勢力は、クロアチア独立国建国直後の1941年4月に設立されたクロアチア郷土防衛隊であった。これはドイツの占領当局の認可の下で行われ、新設のクロアチア郷土防衛隊の任務はこの国家を内外の敵から守ることであった。クロアチア郷土防衛隊の規模は当初、16個の歩兵大隊と2個の騎兵戦隊に限定され、合計1万6千人程度であった。当初の16の大隊はその後1941年5月から6月にかけて、それぞれ2個の大隊からなる15個の歩兵連隊へと規模を拡大し、更に5個の師団へと編成され、兵員数は5万5千人にまで拡大した。 支援部隊には、イタリアから提供された35両の軽戦車、ユーゴスラビア王国軍(英語版)から鹵獲したチェコ製の兵器を装備した10個の砲兵大隊、ザグレブに1個の騎兵連隊、サラエヴォに1個の騎兵大隊、そして2個の自動化歩兵大隊がそれぞれザグレブとサラエヴォにあった。また、複数のウスタシャ民兵連隊が組織され、クロアチア郷土防衛隊からは独立し、別個の命令系統で運用されたが、1944年11月にクロアチア独立国軍へと統合・再編成された。 1941年6月には、組織されたばかりのクロアチア郷土防衛隊は東部ヘルツェゴヴィナでセルビア人の蜂起に直面し、更に7月には東部ボスニア、西部ボスニアでも蜂起が発生した。クロアチア=ダルマチアおよびスラヴォニアの大隊が兵力を補充した後、再び東部ヘルツェゴヴィナの戦闘に従事した。郷土防衛隊は1943年に最大規模に達し、兵員数は13万人に達した。 クロアチア郷土防衛隊には空軍もあり、クロアチア独立国空軍(英語版)(Zrakoplovstvo Nezavisne Države Hrvatske, ZNDHの骨格を成すのはユーゴスラビア王国空軍(英語版)出身の500人の士官と1600人の下士官、125機の航空機であった。1943年にはクロアチア独立国空軍は9,775人の兵員と295機の航空機を保有した。 占領に対する抵抗運動が強まるのに対し、枢軸国は幾多にも及ぶ反パルティザン作戦を展開した。中でも、ユーゴスラビア・パルティザン全体に壊滅的な被害を与えることを目的とした7次におよぶ大規模な反パルティザン攻勢(英語版)が知られる。これらの大規模な反パルティザン攻勢にはドイツ国防軍、親衛隊(SS)、イタリア、チェトニク、クロアチア独立国、セルビア救国政府、ブルガリア、ハンガリーなどが関与した。1943年前半に行われた2回の大規模作戦では、パルティザンの壊滅まであとわずかにまで迫った。現場の川の名前をとってネレトヴァの戦い、スティエスカの戦いとして知られるこの2つの戦いは、ドイツ側ではそれぞれ「白作戦」、「黒作戦」と呼ばれ、または第4次および第5次反パルティザン攻勢とも呼ばれている ユーゴスラビアの歴史学で7回の大規模な反パルティザン攻勢として取り上げられているのは以下の攻勢である: 第1次反パルチザン攻勢(First anti-Partisan Offensive)は、1941年秋に枢軸勢力によって行われた大規模攻勢であり、セルビア西部に成立したパルティザンによる解放区・ウジツェ共和国(Republic of Užice)に対して行われた。1941年11月、ナチス・ドイツはこの領域を攻撃して再占領し、パルティザン兵士の多くはボスニア東部へと脱出した。この戦闘のさなかにチェトニクとパルティザンによる脆弱な協力関係が崩壊し、それ以降は互いを公然と敵視するようになった。 第2次反パルチザン攻勢(Second anti-Partisan Offensive)は、1942年1月に枢軸勢力によってボスニア東部のパルティザンに対して行われた。パルティザンは包囲を破ってサラエヴォちかくのイグマン山へと退却した。 第3次反パルチザン攻勢(Third anti-Partisan Offensive)は1942年の春に枢軸勢力によって、ボスニア東部からモンテネグロ、サンジャクおよびヘルツェゴヴィナにかけて行われた。この攻勢はドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルティザンは辛くも脱出に成功した。 第4次反パルチザン攻勢は、ネレトヴァの戦い、あるいはドイツ側では「白作戦」(Fall Weiß)と呼ばれ、1943年1月から3月にかけてボスニア西部からヘルツェゴヴィナ北部にかけて行われた。枢軸勢力は解放区・ビハチ共和国(Republic of Bihać)の破壊を目的とし、パルティザンはネレトヴァ川を渡って南側へと脱出した。 第5次反パルチザン攻勢(Fifth anti-Partisan Offensive)は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」(Fall Schwarz)と呼ばれる。ボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢の直後から始まった。 第6次反パルチザン攻勢(Sixth anti-Partisan Offensive)は、イタリアが降伏に伴って撤退するアドリア海沿岸地域を引き続き確保するためにドイツ国防軍およびウスタシャによって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた 第7次反パルチザン攻勢(Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルティザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦(Operation Rösselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトーの殺害などによるパルティザン指導者の無力化を目的としていた。
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