枢軸国の反応とは? わかりやすく解説

枢軸国の反応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:11 UTC 版)

ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「枢軸国の反応」の解説

詳細は「対パルチザン攻勢」を参照 パルティザン枢軸国とその傀儡勢力クロアチア独立国セルビア救国政府チェトニクなど)に対してゲリラ戦展開し戦果収めてきた。パルティザン次第大きな戦果上げるようになり、より多く人々支持集めユーゴスラビア広大な一角実効支配するようになったパルティザンにより解放され地域には人民委員会設置され地域自治あたった一部地域では独自の軍需産業興された。 しかし初期にはパルティザン小さな組織であり、装備貧弱で、いかなる設備持ちあわせてはいなかった。しかし、ユーゴスラヴィア域内活動する他の抵抗組織くらべて2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦経験者がおり、ユーゴスラヴィア置かれている状況似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザン民族基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアすべての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多く人々対象兵士募集することができ、また域内での可動性高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていったチェコ人スロバキア人トルコ人を除く多く少数民族占領軍協力した枢軸国パルティザン脅威明確に意識していた。ドイツ国防軍4つ歩兵師団を除くと、この地域出身占領任務あたった最大勢力は、クロアチア独立国建国直後1941年4月設立されクロアチア郷土防衛隊であった。これはドイツ占領当局認可の下で行われ新設クロアチア郷土防衛隊任務はこの国家内外の敵から守ることであったクロアチア郷土防衛隊規模当初16個の歩兵大隊と2個の騎兵戦隊限定され合計1万6千人程度であった当初16大隊その後1941年5月から6月にかけて、それぞれ2個の大隊からなる15個の歩兵連隊へと規模拡大し、更に5個の師団へと編成され兵員数5万5千人にまで拡大した支援部隊には、イタリアから提供され35両の軽戦車ユーゴスラビア王国軍(英語版)から鹵獲したチェコ製の兵器装備した10個の砲兵大隊ザグレブに1個の騎兵連隊サラエヴォに1個の騎兵大隊、そして2個の自動化歩兵大隊それぞれザグレブサラエヴォにあったまた、複数ウスタシャ民兵連隊組織されクロアチア郷土防衛隊からは独立し別個の命令系統運用されたが、1944年11月クロアチア独立国軍へと統合・再編成された。 1941年6月には、組織されたばかりクロアチア郷土防衛隊東部ヘルツェゴヴィナセルビア人蜂起直面し、更に7月には東部ボスニア西部ボスニアでも蜂起発生したクロアチアダルマチアおよびスラヴォニア大隊兵力補充した後、再び東部ヘルツェゴヴィナ戦闘従事した郷土防衛隊1943年最大規模達し兵員数13万人達したクロアチア郷土防衛隊には空軍もあり、クロアチア独立国空軍英語版)(Zrakoplovstvo Nezavisne Države Hrvatske, ZNDHの骨格を成すのはユーゴスラビア王国空軍英語版出身500人の士官1600人の下士官125機の航空機であった1943年にはクロアチア独立国空軍は9,775人の兵員295機の航空機保有した占領対す抵抗運動が強まるのに対し枢軸国幾多にも及ぶ反パルティザン作戦展開した中でも、ユーゴスラビア・パルティザン全体壊滅的な被害与えることを目的とした7次におよぶ大規模なパルティザン攻勢英語版)が知られる。これらの大規模なパルティザン攻勢にはドイツ国防軍親衛隊SS)、イタリアチェトニククロアチア独立国セルビア救国政府ブルガリアハンガリーなどが関与した1943年前半行われた2回の大規模作戦では、パルティザン壊滅まであとわずかにまで迫った現場川の名前をとってネレトヴァの戦い、スティエスカの戦いとして知られるこの2つ戦いは、ドイツ側ではそれぞれ白作戦」、「黒作戦」と呼ばれ、または第4次および第5次パルティザン攻勢とも呼ばれている ユーゴスラビア歴史学で7回の大規模なパルティザン攻勢として取り上げられているのは以下の攻勢である: 第1次パルチザン攻勢First anti-Partisan Offensive)は、1941年秋に枢軸勢力によって行われた大規模攻勢であり、セルビア西部成立したパルティザンによる解放区ウジツェ共和国Republic of Užiceに対して行われた1941年11月ナチス・ドイツはこの領域攻撃して占領しパルティザン兵士多くボスニア東部へと脱出した。この戦闘のさなかにチェトニクパルティザンによる脆弱な協力関係崩壊しそれ以降互い公然と敵視するようになった第2次パルチザン攻勢Second anti-Partisan Offensive)は、1942年1月枢軸勢力によってボスニア東部パルティザンに対して行われたパルティザン包囲破ってサラエヴォちかくのイグマン山へと退却した第3次パルチザン攻勢Third anti-Partisan Offensive)は1942年春に枢軸勢力によって、ボスニア東部からモンテネグロサンジャクおよびヘルツェゴヴィナにかけて行われた。この攻勢ドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルティザン辛くも脱出成功した第4次パルチザン攻勢は、ネレトヴァの戦い、あるいはドイツ側では「白作戦」(Fall Weiß)と呼ばれ1943年1月から3月にかけてボスニア西部からヘルツェゴヴィナ北部にかけて行われた枢軸勢力解放区ビハチ共和国Republic of Bihać)の破壊目的とし、パルティザンネレトヴァ川渡って南側へと脱出した第5次パルチザン攻勢Fifth anti-Partisan Offensive)は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」(Fall Schwarz)と呼ばれるボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢直後から始まった第6次パルチザン攻勢Sixth anti-Partisan Offensive)は、イタリア降伏伴って撤退するアドリア海沿岸地域引き続き確保するためにドイツ国防軍およびウスタシャによって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた 第7次パルチザン攻勢Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春ボスニア西部行われた枢軸勢力による最後の対パルティザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦Operation Rösselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトー殺害などによるパルティザン指導者無力化を目的としていた。

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