世界のニワトリ利用史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:59 UTC 版)
ニワトリは東南アジアから中国南部において家禽化されたとされる。時期についてはヒツジ・ヤギ・ブタと同程度の紀元前8000年前からとするもの、ウシより遅れてウマと同程度の紀元前4000年頃とするものなど諸説ある。家禽化された端緒は食用ではなく、その美しい声や朝一番に鳴く声を求めた祭祀用、および鶏どうしを戦わせる闘鶏用であったと推定されている。ただし、家禽化されて間もなく肉および卵も食用とされるようになり、やがてそちらの方が飼育の主目的とされるようになった。インダス文明に属するモヘンジョ・ダロの遺跡からはニワトリの粘土像と印章、ニワトリの大腿骨が出土しており、これがニワトリの存在を示す証拠としては最も古いものである。その後、ニワトリは3方向に分かれて伝播していった。西方への伝播はまず紀元前15世紀から紀元前14世紀にかけてエジプトに伝播した。他の西アジア地域においてこの時期はニワトリの存在が認められないため、この伝播は海上ルートによるものと考えられているが、まもなくエジプトのニワトリはいったん絶え、プトレマイオス王朝期に再び持ち込まれた。その後、インダス川流域からニワトリは陸伝いに西アジアへと広まり、紀元前8世紀ごろにはギリシアに持ち込まれ、紀元前5世紀ごろにはギリシア文明の諸都市に広く分布するようになっていた。ギリシア諸都市で発行された硬貨には、ニワトリが刻印されたものが多く存在している。新大陸にはニワトリはもともと生息しておらず、コロンブスの新大陸発見後にヨーロッパ人によって持ち込まれた。第2のルートは北へ向かって中国へと伝わるルートであり、日本への伝播もこのルートによるものである。 3つ目のルートは南へと伝わり、マレー半島からインドネシアへと伝わるルートである。このルートからは、やがてマレー・ポリネシア人の南太平洋進出の際にニワトリはブタやイヌとともに家畜として連れて行かれ、ニュージーランドやトケラウなど一部の島々を除くほぼ全域に広がった。しかし、重要な財産として珍重されることの多かったブタと違い、ニワトリは半野生の状態で放し飼いされることが多く、主要食料とはされていなかった。例外はイースター島で、ここでははじめからブタが存在せず、さらにイルカや野生の鳥類、ヤシなどの食料源が次々と絶滅、または入手不可能となる中で、特に1650年以降において最大の動物性食料源として各地にニワトリ小屋が建設され、重要な役割を占めるようになっていった。ニューギニアにおいてはニワトリは食糧として重要性を持たず、美しい羽毛を装飾品として用いることが飼育の主な目的であった。また、オーストラリア大陸にはニワトリはこのルートからは伝播せず、19世紀にヨーロッパ人がオーストラリアに植民した際に初めて持ち込まれた。 ながらくヨーロッパにおいてニワトリはさほど重視された動物ではなかったが、18世紀から19世紀初頭にはニワトリへの興味が高まり、ニワトリへの科学的知見が増大し、またニワトリの育種がこのころから始まった。この動きは1830年代に中国との交易が盛んになり、コーチン種をはじめとする様々な東洋種がヨーロッパに持ち込まれたことで急激なものになった。1850-1900年の間、ヨーロッパやアメリカでは東洋趣味の一つとして、コーチン種などを基にした観賞用・愛玩用のニワトリの飼育や品種改良がブームとなった。「ヘン・フィーバー(雌鳥ブーム)」と呼ばれるこの狂騒期に何百という新品種が作り出されたが、ブームが去るとほとんどの種は消滅してしまった。また、この時期に白色レグホン(Leghorn)、コーニッシュ(Cornish Cross)、ロードアイランドレッドといった、今日でも重要な家禽品種が作り出された。この時期に、ニワトリの近代的育種が本格的に開始されたといえる。また、この19世紀中盤には現代の卵用種の主流であるホワイトレグホンをはじめとする多数の卵用種(レイヤー Egg layer)が開発され、これによって卵の生産が急増し、鶏卵は徐々に一般的な食材となっていった。オムレツやカスタードなどの古い鶏卵の調理法に加え、マヨネーズなどの新しい利用法もこのころに開発された。この卵用種の育成に比べると肉用種の育成は遅れ、1880年から1890年ごろにかけてアメリカで最初のブロイラー生産が始まっているものの、この時の品種は現代の肉用種とは異なるものとされている。その後、さまざまな種の利用を経て、現在の肉用種が完成された。
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