独立戦争および戦後の時代
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「ウィリアム・リチャードソン・ディビー」の記事における「独立戦争および戦後の時代」の解説
ニュージャージーを去った後、ノースカロライナのサリスベリーで、後にアンドリュー・ジャクソンに独自の法律の訓練を施したスプルース・ムーコイに付いて法律の勉強を始めた。1778年12月、デイビーはサリスベリーを離れ、ノーザンプトン郡のアレン・ジョーンズ准将に指揮される1,200名の民兵隊に加わった。イギリス軍による攻撃が予測されていたので、ジョーンズ隊はチャールストンに向かい、その港湾市の防衛準備を支援することを意図した。この脅威が去り、デイビーやジョーンズ隊の残りの者達は南のカムデンまで行軍した後でノースカロライナに戻った。 デイビーはサリスベリーで勉強を再開したが、1779年の春、再び勉強を中断して軍隊に入った。この時、デイビーは既存の軍隊に志願したわけではなく、地元の騎兵隊を立ち上げ訓練することを助けた。「サリスベリー地区騎兵中隊」を立ち上げた功績で、ノースカロライナ邦知事リチャード・カズウェルから4月に中尉の任務を授けられた。デイビーはその下級士官の位に長くは留まらなかった。1779年5月、デイビーとその中隊は、その年早くにチャールストン周辺のアメリカ守備軍を強化するためにペンシルベニアからサウスカロライナに配転されたカジミエシュ・プワスキ将軍の軍団に配属された。プワスキの下でデイビーは少佐に昇進し騎兵旅団の指揮を任された。1779年6月20日、23歳の誕生日の2日前にチャールストン郊外のストノフェリーの戦いでイギリス軍に対する攻撃を率いた。デイビーはこの戦いで太腿に重傷を負って落馬し、かろうじて捕虜になることを免れた。その傷から快復するあいだはサリスベリーに戻って法律の勉強を再開した。間もなく試験にも合格し、1779年11月にサウスカロライナで法律実務を行う免許を得た。翌年の晩春から夏にかけて、十分に傷も癒えたデイビーは独立した騎兵隊を組織した。1780年の夏はこの騎兵隊を率いて幾つかの戦闘に参戦した。 ハンギングロックの戦いの直ぐ後で、ホレイショ・ゲイツ将軍の指揮する新しい軍隊がサウスカロライナに入ってきたという報せを受けた。1780年8月16日のキャムデンの戦いでゲイツは完敗した。大陸軍は懸命に戦ったが、その軍に付いていた民兵は戦いが始まるとほとんど交戦もせずに逃亡した。ゲイツと残った兵士達はサウスカロライナに後退した。デイビーはわずかの差でこの戦いに間に合わなかった。ゲイツやアメリカ軍の残兵と共に北へ撤退する代わりに、南の敵のいるあたりやキャムデンに移動し、物資用荷馬車を回収し、敵の動きに関する情報を集めた。キャムデンとキングスマウンテンの戦いの間の1780年10月、デイビーの騎兵隊はイギリス軍と大陸軍の残存部隊の間にいる唯一の破壊されていない軍隊だった。 恐らく騎兵士官としてのデイビーの最も大胆不敵な行動は、1780年9月26日のシャーロットの戦いでのことだった。アメリカ軍の撤退を支援し、イギリス軍のノーズカロライナ侵攻を遅らせる命令を受け、このとき大佐になっていたデイビーとその150名の騎兵隊は、当時小さな村だったシャーロットに防御陣を布いた。部隊の数人は下馬させて町の中心にある丘の頂上にある石の壁の背後に陣取らせた。他の下馬した兵士達は騎兵の予備兵とともに側面に散開させた。正午ごろチャールズ・コーンウォリス将軍が指揮するイギリス軍が現れた。コーンウォリス軍は少なくとも2,000名の正規兵とロイヤリストだった。デイビーとその部隊はイギリス軍の騎兵や右翼に動いた歩兵と3度交戦した後で北方へ後退した。コーンウォリスはその結果シャーロットを占領したが、2週間足らずしかそこに留まらず、1780年10月7日にキングスマウンテンの戦いで後背地の民兵隊によってイギリス軍とロイヤリストの部隊が敗北した報せを受けた後で「スズメバチの巣」から軍隊を引き上げた。コーンウォリス軍がサウスカロライナに撤退したので、デイビーはその部隊に敵部隊を尾行して小競り合いを演じ、その通信線を混乱させて妨害した。 独立戦争におけるデイビー大佐の軍歴は1780年12月以降劇的に変化した。ナサニエル・グリーン将軍がノースカロライナに到着し「南部方面」のアメリカ軍の指揮に就いた。シャーロットに本部を置いたグリーンは、コーンウォリスがノースカロライナに戻ってきたときに備えて、兵士達のための食糧や装備を切に必要としていた。デイビーの指導力や地域の地形と住人に関する知識がグリーンの注目を引き、1781年1月に経験を積んだ騎兵士官であるデイビーを説得して、野戦士官の任務を諦め、兵站総監として働かせることになった。独立戦争の最終段階をデイビー大佐はその職に就いて、グリーン将軍のいつも物資を必要とする軍隊、さらにノースカロライナの民兵隊のために物資を配置し、組織し輸送するという大変だが報われない任務を果たして過ごした 戦後、デイビーは巡回裁判所の弁護士と雄弁家としてノースカロライナで傑出した存在になった。1786年から1798年まで何度もノースカロライナ州下院議員に選ばれた。1787年にはアメリカ合衆国憲法制定会議の代議員を務め(憲法に署名する前に会議を去った)、1788年から1789年に掛けてはノースカロライナの合衆国憲法批准会議でその成立のために動いた。 デイビーは1798年に議会によってノースカロライナ州知事に選出された。その任期の間に州はサウスカロライナや西方のテネシー州との境界問題を決着させた。1799年にジョン・アダムズ大統領からフランスでの平和交渉に務めるよう協力を求められて知事職を辞任し、二国間協議は1800年の協定で決着した。 デイビーは州兵や新たに結成されたアメリカ陸軍での活動を続けた。1797年のフランスとの危機の際には州兵隊に勤め、アメリカ陸軍ではアダムズ大統領から准将に任命された。ノースカロライナに戻ってからは連邦党員として政治活動を続けた。1803年にはアメリカ合衆国下院議員選挙に出馬し、ウィリス・アルストンに対抗した。アルストンは1798年に連邦党員として選出され、ジェファーソンが大統領になると民主共和党に鞍替えしていた。デイビーはこの選挙で敗北し、さらに1804年の選挙では非公式の書き込み選挙運動でアルストンに次いで次点だった。
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