独立戦争から共和国初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 03:40 UTC 版)
「サーリフ・ボゾク」の記事における「独立戦争から共和国初期」の解説
1920年、ムスタファ・ケマル・パシャのアンカラに来るようにとの電報を受け取り、アナトリアに渡りアンカラに至った。ヨズガト反乱が発生すると、チョラク・イブラヒム・ベイの支隊とともにヨズガトに赴いた。ムスタファ・ケマル・パシャが大国民議会議長に選出されると、議長主席補佐官に任命された。勤続年数のために少佐に、戦時の勤続年数が考慮され特別に中佐に昇進した。希土戦争末期、1922年9月10日、ムスタファ・ケマル・パシャとともにイズミルに凱旋した。 ムスタファ・ケマル・パシャの母ズュベイデ・ハヌムがイズミルでの休養を奨められ、1922年12月17日、列車でアンカラからイズミルに移った際、同行した。サーリフの息子ジェミル・サーリフ・ボゾクによると、ウシャキザーデ・ムアンメル・ベイの娘ラティーフェ・ハヌムについて、ズュベイデ・ハヌムは「この娘は息子に相応しくない」と言ったが、サーリフは事実を改竄して「この娘は息子に相応しい」と言ったと伝えたという。 1923年1月14日にズュベイデ・ハヌムが亡くなった後、1月27日にイズミルに来たムスタファ・ケマル・パシャがラティーフェ・ハヌムとの結婚を決意すると、同月29日、フェヴズィ・パシャ、キャーズム・カラベキル・パシャ、アブデュルハーリク・ベイとともに、この結婚の証人となった。1923年7月12日、330票を獲得してボゾク県 (現ヨズガト県)から第二期トルコ大国民議会議員に選出され、8月11日に初登院した。サーリフは、第五期まで同選挙区から選出され続けることになる。1924年8月26日、トルコ産業銀行の設立メンバーの一人として名を連ねた。
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