大陸軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 08:54 UTC 版)
「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「大陸軍の撤退」の解説
南部の大陸軍残余部隊はノースカロライナ植民地に撤退を始めたが、これをタールトン大佐が追撃し、5月29日、ワックスホーの戦いで再度破った。ワックスホーの後で植民地人の間に、タールトンは大陸軍の兵士が降伏しても多くを虐殺したという噂が広まった(このことの真相は未だに歴史家の間の議論になっている)。「血塗られたタールトン(Bloody Tarleton)」、あるいは「血塗られたバン(Bloody Ban)」という名前が憎しみをもって呼ばれ、タールトンには慈悲が無いと評判されることになって、「タールトンの慈悲(Tarleton's quarter)」が間もなく鬨の声になった。この戦闘が言われているように虐殺であったか否かに拘らず、それに対する悪感情がこの方面作戦の間を通じて抱かれたままになった。ロイヤリスト民兵隊がキングスマウンテンの戦いで降伏した時、愛国者の狙撃兵が「タールトンの慈悲」と叫びながら射撃を続け、ロイヤリストの多くが殺された。タールトンは後にこの戦争についての証言を出版し、アメリカ人捕虜に対する不法行為に関する告発について取り繕い、自身を恥ずかしげも無く肯定的な光の中に描いた。
※この「大陸軍の撤退」の解説は、「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の解説の一部です。
「大陸軍の撤退」を含む「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事については、「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の概要を参照ください。
大陸軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 02:18 UTC 版)
「タイコンデロガ砦包囲戦」の記事における「大陸軍の撤退」の解説
7月4日、大陸軍は前年のアメリカ独立宣言から1周年を祝すために幾らかの乾杯をして静かな祝宴をもった。その夜、インディアンがシュガーローフの上で火を灯したために大陸軍に居場所をしらせたので、急襲の可能性が無くなった。7月5日朝、セントクレアが作戦会議を招集し、撤退の決断が下された。砦の状態は完全に監視されていたので、動きを知られないように出発は夜半まで遅らされた。セントクレアは補給係将校との会話の中で、砦を守ることで「自分の性格は守るが軍隊を失う」か、撤退することで「軍を救うが自分の性格を失う」ことになると言って、その決断に対して予測される政治的反応にはっきりとした示唆を与えていた。 積み込むことのできるあらゆる武器に加えて、負傷兵、宿営地に付き従った者達、および物資が200隻以上の船からなる艦隊に積まれ、スキーンスボロに向けて湖上を動き始めた。これにはピアース・ロング大佐の連隊が付き従った。船の数が足りなかったので、4人の負傷兵が後に残され、また大型の大砲と、テントから牛まであらゆる種類の物資も残された。軍隊の残りはインデペンデンス山に渡り、ハバードトン道路を下った。リーデゼルの部隊はまだ到着していなかった。一握りの兵士が舟橋の所に残り、イギリス軍が近づけばその上の大砲を発砲することになっていたが、翌朝実際にイギリス軍が到着した時にその兵士達は酒で酔っ払っていた。 イギリス軍は1発の銃弾も放つことなく砦を占領し、フレイザーとリーデゼルの部隊から分遣隊が出て、ハバードトン道路を撤退する大陸軍の追跡に出発した。一方バーゴインは部隊の幾らかを急ぎ湖を渡ってスキーンスボロに向かわせた。
※この「大陸軍の撤退」の解説は、「タイコンデロガ砦包囲戦」の解説の一部です。
「大陸軍の撤退」を含む「タイコンデロガ砦包囲戦」の記事については、「タイコンデロガ砦包囲戦」の概要を参照ください。
- 大陸軍の撤退のページへのリンク