大陸軍の守備隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 02:18 UTC 版)
「タイコンデロガ砦包囲戦」の記事における「大陸軍の守備隊」の解説
大陸軍は1775年5月にタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦をそこにいた小さな守備隊から奪って以来占領していた。1776年と1777年、タイコンデロガ砦周辺の防御陣地を強化する努力を続けていた。東のインデペンデンス山にはインデペンデンス砦を構築し、北西のホープ山も防御が施された。タイコンデロガとインデペンデンス両砦の連絡を図るためにラシュート川の河口近くに湖を渡す舟橋が建設された。 タイコンデロガ砦の指揮官は1777年初期に何度か変更された。1777年までフィリップ・スカイラー将軍が大陸軍北部方面軍の指揮を執っており、ホレイショ・ゲイツ将軍がタイコンデロガ砦の指揮官を務めていた。1777年3月、大陸会議は北部方面軍全軍の指揮権をゲイツに与えた。スカイラーがこれに抗議したので大陸会議は5月に命令を取り消し、このときゲイツはスカイラーの下で仕える気が無かったのでフィラデルフィアに戻っていた。砦の指揮はバーゴイン軍が到着する僅か3週間前に砦に来ていたアーサー・セントクレア将軍に渡された。 砦の全体は大陸軍の少勢力の数個連隊とニューヨークなど近在の植民地から来た民兵隊が守っていた。6月20日にセントクレアおよびスカイラー将軍が作戦会議を開き、「砦の現勢力は士卒合わせて有効数で2,500を下回っており、守るには大きく不足していること」、および「撤退の準備をするのが賢明であること」という判断がなされた。その結果2つの経路を通って撤退する作戦が立てられた。最初の経路は水路によって湖の航行可能な南端であるスキーンスボロに向かうものだった。2つ目の経路は陸路東のニューハンプシャー勅許地(現在のバーモント州)ハバードトンへの険しい道を進むものだった。
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