大陸軍の戦術
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「ストーニーポイントの戦い」の記事における「大陸軍の戦術」の解説
この陣地を襲うために6月12日に軽歩兵軍団が編成され、ウェイン将軍が指揮官に指名された。この軽歩兵軍団は1777年から1781年まで毎年、ワシントン軍各連隊の軽歩兵中隊の中から季節によって選抜編成された戦闘集団だった。1779年軍団は4個連隊による1個旅団となり、各連隊は4個中隊による2個大隊で構成された。その詳細は以下の通りだった。 第1連隊、クリスチャン・フィビガー大佐指揮のバージニア第2連隊、バージニアの6個中隊とペンシルベニアの2個中隊で構成 第2連隊、リチャード・バトラー大佐指揮の第9ペンシルベニア連隊、ペンシルベニアとメリーランドの各4個中隊で構成 第3連隊、リターン・J・メグス大佐指揮のコネチカット第6連隊、コネチカットの8個中隊で構成 第4連隊、マサチューセッツの6個中隊とノースカロライナの2個中隊で部分的に編成された、暫定指揮官はマサチューセッツ第8連隊のウィリアム・ハル少佐、第4連隊は8月に完全に編成され、ルーファス・パットナム大佐が指揮した。 1,350名の軍団によって行われる砦への急襲作戦には夜襲を必要とした。各連隊は300ないし400名の兵士で構成され、その中にはイギリス軍の野砲を捕獲した場合の砲兵も含まれていた。18世紀に軍事原則に従えば、備えの堅い防御陣地に対する攻撃には十分な勢力とは言えなかったが、ワシントンの作戦は急襲という要素に加えて砦の致命的な欠陥につけこむことがあった。陣地南側の岸にある木製逆茂木はハドソン川の水深が深い所まで広がってはおらず、干潮のときの狭い海浜にそってならば攻撃することができた。主力の攻撃はこの方向からとされたが、ワシントンは実行可能な場合に第二次と陽動の攻撃も砦の北岸に沿ったものと中央の土手道を越えることで行うよう忠告していた。 ワシントンはウェインに必要ならば作戦を修正しても良いという指示を与えていた。これはワシントンの場合には異常なことであり、ウェインの戦術的能力を高く買っていたこと示している。この襲撃は困難なものになるはずだった。真夜中に行われること、兵士達はストーニーポイントの急峻で岩だらけの側を攀じ登らなければならないこと、および急襲が必要なことだった。急襲を有効にするためにワシントンは兵士達に弾を填めていないマスケット銃を携行させ銃剣のみを使って攻撃するように命令した。これは銃を発砲すればイギリス軍の哨兵に気付かれるからだった。例外的に弾を填めた銃剣を携行させたのは、ウェインが土手道越えを指示したノースカロライナの軽歩兵2個中隊であり、イギリス軍が攻撃を予想できたその防御工作の中央を陽動攻撃するためだった。この大隊はハーディ・マーフィー少佐が指揮しており、陽動戦術としてその武器で一斉射撃を行うよう指示されていた。 ウェインはバトラーの第2連隊約300名を選んで砦の北岸から攻撃するよう指示し、ウェイン自身は第1および第3連隊とハルのマサチューセッツ軽歩兵分遣隊からなる主力を率いて南岸に進むこととした。この主力では100名と150名の前衛隊がそれぞれ障害物を払う先鋒となり、各前衛隊の20名が決死隊となって部隊を守り、最初に砦の中に入るものとされた。ウェインは砦に一番乗りした者、および戦闘で傑出した働きをした者に報奨金を出すと宣言した。
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