大陸軍の解隊とアメリカ陸軍の創設
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「大陸軍 (アメリカ)」の記事における「大陸軍の解隊とアメリカ陸軍の創設」の解説
戦後は小さな地域軍隊が、ウエストポイントと幾つかの辺境の前哨基地に残された。1784年6月3日、大陸会議を引き継いだ連合会議がアメリカ陸軍の創設を決議した。 平時軍隊への移行計画はアレクサンダー・ハミルトンが議長を務めた連合会議委員会の要請で1783年4月に始まっていた。5月2日に大陸軍の公式見解を提出する前に、総司令官ワシントンが重要な士官とこの問題を検討した。ここで重要なことは、士官達の間に軍隊の基本的枠組みについて広い同意があったことだった。ワシントンの提案は4つの構成要素を作ることだった。すなわち小さな正規軍、均一に訓練され組織された民兵隊、武器庫のシステム、および砲兵と工兵士官を教育する士官学校だった。彼の提案した連隊組織は大陸軍のやり方を踏襲したが、有事の場合には増強される決まりがあった。ワシントンは戦争が始まったときは先ず民兵が国の安全保障の役割を果たし、1775年と1776年にやったように正規軍がこれを引き継ぐ形を期待した。ストイベンとフランス出身の士官デュポーテイルも自分達の提案を連合会議での検討を求めて提出した。 連合会議は平時軍隊の設立を決断することについて5月12日に断ったが、イギリス軍がニューヨーク市と辺境の基地幾つかを明け渡すまで幾らかの軍隊を残しておく必要性には注意を向けた。代議員達はワシントンに固定期間で徴兵した兵士を一時的な守備隊として使うよう告げた。ウェストポイントからのこのような兵士の派遣部隊が11月25日に何事も無くニューヨーク市を再占領した。しかし、7月にストイベンがイギリスのフレデリック・ハルディマンド少将と交渉していた辺境砦の明け渡しについては破談になり、イギリス軍は1790年代に入るまでその支配を続けた。この不成功の他に、残っていた大半の歩兵の徴兵期間が1784年6月までに切れることを認識したワシントンは、平時の指揮官として選んでいたヘンリー・ノックスに、冬が来る前に500名の歩兵と100名の砲兵を残して、他は除隊させるよう命じた。歩兵はマサチューセッツ州出身のヘンリー・ジャクソン大佐の下にジャクソンの大陸連隊として再編成された。ジョン・ドーティの下のニューヨーク兵から成る1個砲兵中隊は大陸軍第2砲兵連隊の残りからできていた。 1783年10月18日、連合会議はワシントンの削減案を承認する声明を発表した。11月2日、ワシントンは解雇される兵士達に向けて全国に配布されるフィラデルフィアの新聞紙上に「軍隊への送別の式辞」を掲載させた。この式辞で、ワシントンは士官や兵士達にその支援に就いて感謝し、「我々の弱い立場における神の唯一の干渉はほとんど無頓着な者の注意をも逃れられないようなものだった。8年間という間にほとんどあらゆる苦しみと挫折を通じてあったアメリカ合衆国の軍隊の比類ない忍耐力は絶え間ない奇跡も同然だった。」と思い出させた。 ワシントンはあらゆる植民地出身の兵士を「一つの兄弟達の愛国的部隊」に溶け合わしたことは大きな成果であると考え、文民生活においても退役兵達がその献身を続けてくれるよう依頼した。 ワシントンは12月4日にニューヨーク市フローンセス・タバーンで残っていた士官達に別れを告げた。12月23日、ワシントンは当時アナポリスで開催されていた連合会議に出席し、総司令官としての任務を返上した。「私は今与えられていた仕事を成し遂げ偉大な戦場から引退する。先の8月にはその命令の下に私が長い間行動してきた軍隊に感傷的な別れを告げ、ここに私の任務を返し、公的生活のあらゆる役職から休暇を取ることを申し出る。」と告げた。連合会議は9月3日に調印された最終的な和平条約を1784年1月14日に批准することでアメリカ独立戦争を終わらせた。 連合会議は1783年10月に再度ワシントンの平時軍隊の概念を拒んでいた。中庸的な代議員が予定される軍隊の大きさを1個砲兵大隊と3個歩兵大隊に減らす代案を1784年4月に提案した時、連合会議はこれも拒んだ。これにはニューヨーク州が、マサチューセッツ州出身で残っていた兵士が両州の間の土地問題でマサチューセッツ州側に就くことを恐れたのも一部の原因だった。350名の兵士を残し、新たに700名を徴兵する別の提案も成功しなかった。6月2日、連合会議はピット砦の管理人25名とウェストポイントの55名を除き、残っていた兵士全員を除隊させる命令を出した。翌6月3日、全ての関係者に受け入れられる平時軍隊を創設した。 その創設計画では4つの州に700名の兵士を1年間任務で徴兵することを求めていた。連合会議は陸軍長官にその軍隊を8個歩兵中隊と2個砲兵中隊に編成するよう指示した。260名を割り当てられたペンシルベニア州は上級士官となる中佐を指名する権限を与えられた。ニューヨーク州とコネチカット州はそれぞれ165名を徴兵し、少佐を1人指名した。残り110名はニュージャージー州に割り当てられた。経済性がこの提案のモットーであり、各少佐は中隊長となり、将校は従軍聖職者、軍医および軍医助手の仕事を除いてあらゆる補佐的任務を果たした。ジョサイア・ハーマーの下でアメリカ第一連隊が緩りと編成され新しい正規軍の歩兵連隊として恒久的な位置付けになった。アメリカ第一連隊の血統は現在アメリカ第3歩兵連隊に引き継がれている。 この小さな平時正規軍は大陸軍の古参兵に指導され、その後の10年間で次第に拡張された。大陸軍の規則、規制および伝統を継承していた。ストイベンのブルーブックは正規兵およびほとんどの州の民兵隊の公式マニュアルとして残り、1835年にウィンフィールド・スコットが1791年フランス軍規定をアメリカ用に採用するまで続いた。1794年のフォールン・ティンバーズの戦いでは、アンソニー・ウェイン少将が、ジョン・サリバンのイロコイ族に対する1779年遠征で使われた荒野での作戦展開手法を採用した。元大陸軍兵を民兵隊に統合したことは、1792年に全国的民兵法が成立したことと合わせて、古参兵が年をとるまでその制度の軍隊としての反応性を改善した。
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