大陸軍の防御の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:52 UTC 版)
「ヨークタウン方面作戦」の記事における「大陸軍の防御の試み」の解説
デトーシュはド・ティリーの遠征の結果、および事態を進展させるためにニューポートに来たワシントン将軍に強く勧められたこともあって、より大きな行動に移ることにした。3月8日、デトーシュは全艦隊(戦列艦7隻と数隻のフリゲート艦および捕獲したばかりのロムラス)にフランス陸軍を乗せて、バージニアでラファイエット隊と合流すべく出発した。アーバスノット提督はデトーシュの出発を知らされ、アーノルドにフランス軍の動きを警告する伝令を派遣した後、3月10日に出港した。アーバスノットの銅板装甲の艦船はデトーシュの艦船よりも速く帆走できたので、フランス艦隊よりも早く3月16日にケープヘンリーに到着した。それに続いて起こった海戦はほとんど決着が付かなかったが、アーバスノット艦隊は自由にリンヘイブン湾に入り、チェサピーク湾への航路を支配した。デトーシュ艦隊はニューポートに帰還した。ラファイエットはイギリス艦隊を視認し、受けていた命令に従って、部隊をニューヨーク地域に戻す準備を行った。4月初旬までにヘッド・オブ・エルクに戻ったが、ワシントンからバージニアに留まれという命令を受け取った。 デトーシュ艦隊がニューポートを出て行ったことでクリントン将軍はアーノルドに援軍を送ることにした。アーバスノット艦隊が出て行った後で、ウィリアム・フィリップスの指揮で2,000名の部隊を輸送船に乗せチェサピーク湾に向かわせた。この部隊は3月27日にポーツマスでアーノルド隊と合流した。フィリップスの方がアーノルドより上級将官だったので、部隊の指揮を執り、ピーターズバーグやリッチモンドを標的とする襲撃を再開した。この時までにバージニア民兵隊の指揮官だったフォン・ストイベン男爵とピーター・ミューレンバーグは、その部隊が劣勢であったにも拘わらず、部隊の士気を維持するために抵抗しなければならないと感じていた。彼らはピーターズバーグに近いブランドフォード(ブランドフォードは現在ピーターズバーグ市の一部になっている)に防衛線を構築し、4月25日に統制の取れた戦闘を行ったが敗北した。フォン・ストイベン男爵とミューレンバーグは前進してくるフィリップス隊を前に後退した。フィリップスは再度リッチモンドを襲撃できると期待していた。しかし、ラファイエットが一連の強行軍を行い4月29日にリッチモンドに到着した。それはフィリップス隊が到着する数時間前のことだった。
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