大陸赴任と国師就任
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康熙47年(1708年)2月7日、27歳で進貢存留役となり、存留通事(現地での通訳)として清の福州へ赴任することとなった。同年11月3日に那覇を発ち、11月17日に福州へ入った。福州琉球館の近くに凌雲寺があり、ここで住職に紹介され「湖広の者」と名乗る隠者に出会う。隠者から「書物を読み知識を習得しただけでは何の役にも立たない」との指摘を受け実学の思想に目覚める。隠者から陽明学に関する教えを受け、康熙49年(1710年)1月20日に福州を発ち1月29日に帰国した。帰国後まもなく自ら琉球北部を視察している。6月21日に都通事に昇格した。 康熙50年(1711年)4月、30歳で当時の皇太子尚敬の教師である世子師職兼務近習役を任命された。翌年の7月15日に尚益王が死去し尚敬が王に即位すると、国師と呼ばれる地位に就任した。国師は琉球王国において蔡温以前にも以後にも就任した者のない地位であり、琉球国全体を指導する役割を担うことになった。翌康熙54年(1715年)1月27日、34歳で勝連間切神谷地頭職に就任し神谷親雲上となった。同年、首里赤平に転居した。康熙53年(1714年)8月1日、33歳で正義大夫となり、同年8月15日に長男の蔡翼が生まれている。翌年の3月18日、尚敬王が蔡温宅を訪れ、蔡温は自ら茶を点ててもてなした。同年8月2日、政治や道徳など帝王学についてまとめた『要務彙編』を著した。
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