大陸赴任と国師就任とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大陸赴任と国師就任の意味・解説 

大陸赴任と国師就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 08:11 UTC 版)

蔡温」の記事における「大陸赴任と国師就任」の解説

康熙47年1708年2月7日27歳進貢存留役となり、存留通事現地での通訳)として清の福州赴任することとなった同年11月3日那覇発ち11月17日福州入った福州琉球館近く凌雲寺があり、ここで住職紹介され湖広の者」と名乗る隠者出会う隠者から「書物読み知識習得しただけでは何の役にも立たない」との指摘を受け実学思想目覚める隠者から陽明学に関する教えを受け、康熙49年1710年1月20日福州発ち1月29日帰国した帰国後まもなく自ら琉球北部視察している。6月21日都通事に昇格した康熙50年1711年4月30歳当時皇太子尚敬教師である世子師職兼務近習役を任命された。翌年7月15日尚益王死去し尚敬が王に即位すると、国師呼ばれる地位就任した国師琉球王国において蔡温以前にも以後にも就任した者のない地位であり、琉球国全体指導する役割を担うことになった。翌康熙54年1715年1月27日34歳で勝連間切神谷地頭職就任し神谷親雲上となった同年首里赤平転居した。康熙53年1714年8月1日33歳正義大夫となり、同年8月15日長男の蔡翼が生まれている。翌年3月18日尚敬王蔡温宅を訪れ蔡温は自ら点ててもてなした同年8月2日政治道徳など帝王学についてまとめた『要務彙編』を著した

※この「大陸赴任と国師就任」の解説は、「蔡温」の解説の一部です。
「大陸赴任と国師就任」を含む「蔡温」の記事については、「蔡温」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大陸赴任と国師就任」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大陸赴任と国師就任」の関連用語

1
14% |||||

2
8% |||||

大陸赴任と国師就任のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大陸赴任と国師就任のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの蔡温 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS