バレーフォージとモンマス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:42 UTC 版)
「フィラデルフィア方面作戦」の記事における「バレーフォージとモンマス」の解説
1777年12月、ワシントンとその軍隊はフィラデルフィアから約20マイル (32 km) のバレーフォージに宿営し、その後6ヶ月間をそこで過ごした。冬の間に10,000名いた軍隊の中から2,500名が病気や寒さで死んだ。しかしストイベン男爵が監督した訓練計画のお陰もあって、大陸軍はバレーフォージからかなり良い状態で出撃することになった。 一方、イギリス軍は1777年10月に、カナダからニューヨーク北部に侵攻していたジョン・バーゴイン将軍の指揮する別働隊がニューヨーク植民地のサラトガで大陸軍に降伏した。総司令官のハウはこれを援けることができなかったこともあって辞任し、ヘンリー・クリントン将軍がその後任になるという大きな動きがあった。サラトガでの大陸軍の勝利を見たフランスがこの戦争に参戦することでイギリス軍の戦略を変えさせ、クリントンはイギリス政府からフィラデルフィアを放棄して、フランス海軍からの脅威を受ける可能性のあるニューヨーク市を守るよう命令された。ワシントンはラファイエット将軍を前衛隊として派遣したが、バーレンヒルの戦いでイギリス軍に撃退された。 ワシントン軍は撤退するクリントンの軍隊を追跡し、1778年6月28日にアメリカ北部では最後の会戦となったモンマスの戦いを強いた。ワシントン軍の副司令官チャールズ・リーがこの戦闘中に不可解な後退を命じ、クリントン軍を取り逃がすことになった。7月までにクリントン軍はニューヨーク市に入り、ワシントン軍は再度ニューヨーク植民地のホワイトプレインズに入った。両軍は2年前の位置に戻ったことになった。
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