バレー、1864年
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「ジュバル・アーリー」の記事における「バレー、1864年」の解説
アーリーにとって最も重要な任務は1864年のバレー方面作戦であり、南軍として最後の北部侵攻を指揮した。南軍の領域は北軍のグラントとウィリアム・シャーマンに急速に占領されつつあり、リーはアーリー軍団でシェナンドー渓谷を掃討させ、ワシントンD.C.に脅威を与えることで、グラントが行っているリッチモンドやピーターズバーグ周辺でのリー軍に対する攻撃を弱めることを期待していた。アーリーはメリーランドハイツで小さな北軍を破るという無駄な試みのために進軍が数日間遅れ、7月4日から6日までは兵士を休ませた 。 この間に、グラントはポトマック軍から第6軍団の2個師団をルー・ウォーレス少将軍の補強に派遣した。ウォレスの5,800名の部隊はモノカシーの戦いで丸一日アーリー軍を足止めさせ、北軍がワシントンに到着してその防衛を固めるための時間を作った。この侵略はワシントンとボルティモアに少なからぬ恐慌を来たし、アーリー軍はワシントン郊外まで到達した。ジョン・マッコーズランド准将に騎兵を付けてワシントンの西側に派遣した。アーリーはワシントンを占領できるだけの戦力を持っていないことを認識していたので、その郊外のスティーブンス砦とデラッシー砦で示威行動を行い、7月11日と12日には小競り合いと砲撃戦があった。エイブラハム・リンカーンは両日ともスティーブンス砦の胸壁から観戦しており、戦火を味わった唯一の現役アメリカ合衆国大統領となった。アーリー軍が撤退した後で、リンカーンはその士官に向かって、「少佐、我々はワシントンを取られなかったが、我々はエイブ・リンカーンに地獄の思いをさせた」と語った。 アーリーは7月13日にポトマック川を渡ってバージニア州リーズバーグに戻り、シェナンドー渓谷に撤退した。1864年7月24日の第二次カーンズタウンの戦いではジョージ・クルックの指揮する北軍を破った。6日後、騎兵隊に命じてペンシルベニア州チェンバースバーグを焼いたが、これはその月の早くにウエストバージニア州ジェファーソン郡で北軍のデイビッド・ハンター少将が著名な南部同調者数人の家を焼いたことに対する報復だった。8月の上旬、アーリーの騎兵隊とゲリラ部隊がボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の様々な地点を攻撃した。 グラントは、アーリー軍が何時でも望む時にワシントンを攻撃できることに辛抱できなくなり、フィリップ・シェリダン配下の軍隊を派遣してその脅威を取り去ろうとした。シェリダンは、南軍の勢力に対して3対1の優勢にあるときに、8月初期の3回の戦闘でアーリー軍を破り、渓谷の農業資産の大半を荒廃させ、リー軍に対する補給物資として使えなくした。アーリーは1864年10月19日のシーダークリークの戦いで目覚しい急襲を行って、北軍の3分の2を壊滅させたが、アーリー軍は飢えており、また消耗していたので、北軍宿営地の略奪のために隊列を離れるものがいた。シェリダンはどうにかしてその部隊を掻き集め、アーリー軍を徹底的に破った。 アーリー軍団の兵士の大半は12月にピーターズバーグにいるリー軍に加わり、アーリーは形骸化した軍隊の指揮を続けた。1865年3月、その軍隊はウェインズボロの戦いでほとんど崩壊し、アーリーは僅かな参謀達とともにかろうじて捕虜になることを免れた。リーは1865年3月に指揮官としてのアーリーを解任した。これは作戦を継続するために徴兵する兵士達に自信を吹き込むアーリーの能力を疑ったためであった。リーはこの決断の難しさについてアーリーに宛てて次のように書き送った。 貴方の能力、熱心さおよび我が軍に対する献身に対する私自身の信頼感は損なわれていないが、それでも現在一般の見解と考えられるものに対して、貴方の評判に対する不当な処置と貴方の軍歴を傷つけること無くして反対することは出来ないと考えてきた。それ故に私は国の力と資源を高め、兵士達に自信を吹き込むことがよりできそうな指揮官を敢えて見つけることを強いられていると思う。...貴方が私の行動を常に支えてくれた忠誠と活力に感謝し、また従軍中に表してくれた勇気と献身に対してお礼を述べる。 — ロバート・E・リー、アーリーに宛てた手紙
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