ニュージャージーと退役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 01:50 UTC 版)
「ダニエル・モーガン」の記事における「ニュージャージーと退役」の解説
サラトガの後、モーガン部隊はフィラデルフィアの近くにいたワシントンの主力と合流した。1778年を通じて、モーガンはニュージャージーのイギリス部隊とその補給線に対する攻撃を続けたが、大きな戦闘に遭遇することは無かった。彼はモンマスの戦いには参加しなかったが、撤退するイギリス軍を活発に追撃し、多くの捕虜や物資を捕獲した。9月14日にバージニアの大陸軍が編成替えされた時、モーガンは第7バージニア連隊の大佐になった。 この期間を通じてモーガンは大陸軍と大陸会議に不満を募らせるようになった。彼は政治的な活動を行うこともなく、また大陸会議との関係を築くこともなかった。その結果、彼は准将への昇進を見送られ、戦闘経験が少なく政治的なコネが良好な者にその地位が回った。ワシントン軍の大佐でありながら、モーガンは時としてウィードンの旅団を指揮することがあり、その地位に就くだけの準備はできていると感じていた。この鬱屈のほかにも、ケベック遠征の時に酷使した足と背中が悪化していた。彼は1779年6月30日に除隊を認められ、故郷のウィンチェスターに戻った。 1780年6月、モーガンはゲイツ将軍に復隊するよう求められたが辞退した。ゲイツは南部方面軍の指揮を執っており、モーガンは多くの民兵士官に昇進レースで遅れを取り、自分は役に立たないと感じていた。キャムデンの戦いでゲイツが大敗し、モーガンは様々の思いを投げ捨てて南部に向かい、ノースカロライナのヒルスボロで指揮官となった。
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